2008年09月29日

短編小説『バスと妻』

必ず誰かが死んでる短編小説第三弾。今回もあとがきはありません。



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2008年09月27日

詩『Cloud』

誰もいない家は鍵が閉じられたまま
裏庭に水仙の花が咲いている
サボテンが尖ったまま
新聞はポストに詰まっている
家は、君が帰ってくるのを待ってる

うるさいセールスと思って
つっけんどんにとった電話
あまりの唐突さに 言葉が出ない
いや、このときが来るのはわかっていたんだ
でも、それが今だなんて
時間は僕を許さない

君の元へ車を走らせる
だんだん散らかるミントガムの銀紙
ガムは飲み込んでしまって
よぎる面影、そんなとき

君は今どんな夢を見ているのだろう
どんな意識の混沌の渦の中を揺られているのだろう
僕らが許されているはずの
現実との約束の届かない場所で
君のいつもの笑顔がよぎる
ただ僕にも、海面の向こうで太陽が揺らめくのが見える

きっと、世界をわかたっても

冬の足からはい上がってくる冷たさ
風呂上がりのはじけるサイダー
凍えるような水道の水
透きとおるような暗闇のステージに
スポットライトの中を桜の花びらが舞う
滴る雨粒
そんな思い出が残る あの歌と共に

いつも君は見まもってくれた
はなれていても
いつも影ながら支えてくれた
いつも僕の味方だった
そのことを忘れるはずもない
忘れられるはずもない

そんな君の、突然の知らせ

もっといろいろと話してよ
君が歩いてきた土埃舞う道のこと そこで会ったいくつもの人々
僕らはまだまだ、これからだっただろうに

忘れたいことが、受け入れられないことがあったとき
朝目を覚ました僕はぼんやりと思う
そして、壁に手をつたわせる
手のひらを眺めて、自分のいる場所を確認したりする
でも、朝の小鳥の鳴き声は無情に響く

大切な何かが見つからない
思いが喉元で詰まったまま言葉にならない
でも、伝えたいんだ
きっと、僕が出会ってきたものを
あの日から僕をこの光の中にとどめる 希望という名を
限界なんか飛び越えて、このこみ上げる思いが届くように

恐れないで 泣かないで
忘れないで 負けないで
いつものように 気高く、朗らかに、君らしく生きて
自分が正しいと信じる道を生き抜いて
例え、暗闇の中でも
それが儚い望みでも

たとえ僕に出来ることは何もなくても
僕はあの雲を見上げているから
この腕は絶対に放さない
だから、ねえ、手を上げて答えて
ねえ、目を覚ましてよ……

夏の終わりと共に
家は、君が帰ってくるのを待ってる

■(2008.8.21)

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2008年09月25日

脳コマンド学(3)

この記事は前記事の続きです。

「わからない」とは

――「わからない」とはどういう事でしょう。それはたぶん、「解を見つけ出す方法がわからない」すなわち「解を求めるためのコマンドが存在しない」ということではないでしょうか。もし解を求めることが出来るコマンドがなければその入力された問題を答えの情報に変換することなど出来ません。これは先ほどのコマンド開発が処理に必要な程度に追いついていないことも示します。また、基礎となる概念がわからなくて応用問題が解けないことがありますが、これはあるコマンドが利用する別の基礎的なコマンドが存在していないと言うことの表れとも言えるでしょう。わからないことをわかろうとするには、基礎となるコマンド、解を導くコマンドを開発しなければならないのです。それすなわち勉強と実践です。また、「わからないことがわかる」とは解を導くためのコマンドが欠如していると言うことを基幹コマンドが理解していると言うことなのだと思います。

ちなみにたとえコマンドが存在しても、そのインストールパスがわからないとそれを呼び出すことは出来ません。使う側のコマンドが、使われる側のコマンドがどこにあるか知っていることが必要です。

ランタイムとSDK

音楽を聴いたとき、そこには感情が生まれます。しかしこれは不思議です。音楽において感情を生み出す主要素はコードですが、コードについて詳しくない人でも音楽の感情はつかめます。しかしコードがわからないと感情も生まれないはずです。もし音楽に感情を感じるならば、その人はコード理論について理解していることになるのではないでしょうか。ならば勉強しなくても誰でも作曲が出来るのではないか? 

残念ながら実際のところはそうではないようです。私にもわからないですが、これはたぶんランタイムとSDKは違うと言うことではないでしょうか。コードを読み込んで感情を出力できるコマンドはあるものの、それは無意識の領域に深く入り込んでおり、人間の意識から直接呼び出せるわけではない。しかもそのコマンドは感じる能力はあるものの作り出す能力はない。作曲をするためにはランタイムがどういう反応を示すのか予測して音を構築できるSDKのようなコマンドが別途必要になるのではないかと言うことです。

まとめ

以上が脳コマンド学のはしりです。あくまでもこれらは机上の空論ですし、人間が意識して認識するものではありませんが、考え方としては面白いものではないでしょうか。コマンドと脳の回路がどう対応しているのか考えるのは、脳科学的にも興味深い課題だと思います。

■(2008.9.11〜)

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2008年09月23日

脳コマンド学(2)

この記事は前記事の続きです。

画像ファイルはどこにある?

――よく記憶というのは脳では神経細胞の回路のつながり方によって記録されると言います。脳はパソコンと違ってCPUとハードディスクのように記録(記憶)と思考器官が分かれたりしていなく、思考も記憶も同様の場所で行っているようです(過去の体験を記録するための海馬とかはありますが)。また、視覚情報を例にとるとパソコンにおいては画像ファイル形式でデータファイルとして扱われますが、脳ではそれらしい記録形式は見つかりません。この違いはどう説明すればいいでしょうか。

Linuxではアイコンの画像情報なども実行形式ファイルとして保持することがあります。まさに実行形式ファイルに重きを置くLinux的なアプローチです。(ちなみにWindowsのexe形式も中にアイコン情報を持っています。)実行形式ファイルなら何だって出来ます。例えそれがどんな画像であれ、実行形式ならその情報を保持できるのです。これをヒントにすると、脳でも同じ事が言えそうです。画像ファイルなどという形式ではないけれど、コマンドという回路で記憶を保持しているのです。

自己解析性

最近考えたことに、自己解析性があります。それはコマンドが自分自身を解析する能力です。コマンドはただ存在するだけでは自分がどういう機能を持ったコマンドであるか、認識することは出来ません。解析用の別のコマンドを使ってはじめて自分が何をするためのコマンドなのか理解することが出来ます。

人間は非常に自己解析性に優れていると言えます。医療研究がその典型です。人間は自分の体がどうなっているか知ることで、病気になったときなど有効な治療方法を見つけ出します。たとえば風邪を引いたら薬を飲みますが、人間は風邪に効く薬は何かとか誰かが調べたから飲むのです。自分を理解することで、人間は発展していると言えると思います。

ブラックボックス

勉強が何のためにあるかといったら、それはコマンドを開発するためです。1+1=2になるという正しい法則を頭の中に植え付けるのです。つまり「x=1、y=1を入力されたときに出力はz=2になった、どういう計算が行われているか」なら「足し算」ですし、「小論文を書きなさい」と入力されたときには、書き上げた小論文が出力です。ある情報を入力されたときに、それを変換して出力するのがコマンドです。「ブラックボックス」といえばわかりやすいかもしれません。そして勉強とは、そのブラックボックスを構築して、いつでも正しい答えを導き出すためのものに相違ないのです。――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

ラベル:Linux
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2008年09月21日

脳コマンド学(1)

はじめに

ブログのコラム、『デジタルはデジタル、アナログもデジタル』でも書きましたが、私はこの世界の構成はほぼコンピュータ科学を拡張することで表現できると考えています。普通「パソコンと現実は違うだろう」と思うかと思います。なぜならば現実の世界とパソコンは全く似ていないように思えるからです。しかし、もしこの世界がある一定の物理法則に沿って動く巨大なデジタル世界であると考えたならば、それはコンピュータと基本的には同じです。そしてコンピュータの性能が現在から飛躍的にアップしたと考えたならば、将来的には物理世界に含まれる非常に微妙な要素においても、的確な計算をすることが可能になることになります。

脳コマンド学

そして私は今、脳科学にもコンピュータ科学的なアプローチが使えるのではないかとも考えています。その主なものが私が勝手に名付けた「脳コマンド学」です。

Linuxではコマンド(実行形式ファイル)を組み合わせて使うことでソフトを動かします。ユーザーが操作すると、あるコマンドが起動し、そのコマンドが別の必要なコマンド(複数のこともある)を動かして命令を実行するという考え方です。そして、コマンド間では情報の受け渡しが行われ、処理が続きます。このコマンドの動きを脳の働きに当てはめてかんがえるのが脳コマンド学です。

実際のところ脳がどうなっているのかは私には分からないですし、脳の中をどう電気信号が流れたからこうなったとかそういうことも分かりません。しかし、いわゆる比喩として、脳コマンド学は使えると思います。脳にせよパソコンにせよ、情報を処理していることに代わりはないからです。

絶対服従と乗っ取り

友達に『コードギアス 反逆のルルーシュ』というアニメを勧められたので見てみましたところ、脳コマンド学に関する一つのテーマが思い浮かびました。このアニメではギアスという特殊能力を持っている人々が登場するのですが、主人公のギアスでは特殊な状態の目をもって人の目と視線を合わせることで絶対服従の催眠を相手に掛けることが出来ます。

これを脳コマンド学に当てはめてみたのです。脳コマンド学では活動・判断・能力などの全てをコマンドの振る舞いとして考えます。この場合、絶対服従の催眠とは、それすなわち乗っ取りです。現実のパソコンでもクラッカー(いわゆるハッカー。「ハッカー」は誤用)によってインターネットにつないでいるパソコンが乗っ取られることがありますが、それと同じです。

Mac OS XのTime Machine(バックアップ機能)を拡張するためのオンラインソフトがありますが、そのソフトではMac OS Xの重要なデーモンであるlaunchdを置き換えます。もちろんこれはユーザの許可を得た上で行われることなので全く問題はないのですが、クラッカーたちが行う乗っ取りは、ユーザーが意図せずにこれと同様の方法で悪意のあるソフトをインストールします。

絶対服従とは、全ての判断のおおもとを下す基幹デーモン(私はこれをルートサーバコマンドと呼んでいます)を置き換える行為です。またはルートサーバコマンドに分からないようにルートサーバコマンドが使う主要コマンドを置き換える行為です。これらが置き換わると、その人は前までとは全く別の判断を下すことになります。つまり「服従しよう」という判断が生み出されるのです。(ここではそう書きましたが、「服従しよう」などという生やさしい「判断」ではなく、乗っ取りとは洗脳です。)――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

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2008年09月18日

詩『星の雫』

蚊のうなりにハッと気づく暑苦しい夜
柱の隙間から見えるヤシの木
ちょっと出かけたくなった僕は
アブウェロが寝たのを見計らって
真夜中に二艘舟を拝借して
海へこぎ出した。

海は凪ぎ、波もなく
齢を知る月、ただ水面に黄色く映り

僕はただひたすらオールを漕ぐ
オールの作る波が、この水面に広がっていくのが見える

星と教えを道標に 君のいる目的地へ
もう一方の船は 君のために

疲れて船の上で寝転がると
僕の網膜に、満天の星空が映り込む
そうか、今日は快晴だな 雲一つ無いや
あそこに見えるのは、天の川か
赤い星は、年寄りだってアブウェロが言ってたっけ

ただ、船がユラユラ揺れて 僕はまどろむ

君が出かけたのは、もうどれくらい前のことだろう
嵐の夜に 君はボートでこぎ出した
悲しみという衝動に押されて、誰が止めるのも聞かずに

あれから君からの便りはぷっつり途絶えたままだけど
今どうしているんだろう
君は元気にしてるかな――

僕はいつも答えを求めてる
少しでも、この世界に隠された真理を見つけたいと思って
でもなんとなくわかるんだ
そのヒントはきっとすぐ近くにあるんだろうって

オールを引く度に小さな疑問が起きる
オールを押してそれに答えてみる
すると波が、それが合ってるか教えてくれる
そうやって、星々の隙間に隠された真理を見つけていく――

僕は思う
海はなぜあの時君にあのような悲しみを与えたのだろう
海はなぜ、今僕にこの星々の光とやすらぎを与えるのだろう

夢の中で大波にさらわれたとき、混沌の海を溺れかけながら腕かきで泳いでいった
そして何もかも失ったとき、一つだけ手のひらに残ったものがあったんだ

僕はその真理の欠片を一つ手のひらに握りしめて
残りのピースを探していく
この、広い海を渡って

――アブウェロが起きてたなんて、僕も最初から気づいていたんだけどね。

■(2008.8.2)

「アブウェロ」という言葉はBLEACHからいただきました。「じいちゃん」って意味だそうです。(もしかしたら個人名かな?……それだったらこの詩にこの言葉を使ったのはミスってことになりますが。)もう世間は夏って感じじゃないですが、一応この詩は初秋の星空をテーマにしているので載せました。

ラベル:BLEACH
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2008年09月15日

自由とはとらわれること

一般に「自由」でありたいと、誰もがそう思っていることと思います。あまりこの言葉を意識しない人でも少なくとも不自由にはなりたくないことでしょう。私の理念の中でも「自由」は重要な要素です。そこで、今回の記事では歴史的にも哲学で重要なテーマである「自由」について私の独自的な見解を述べたいと思います。

まず自由といったらどういう事でしょうか。以下に一般的な定義を適当に並べてみたいと思います。
  • 何にも束縛されない
  • 誰にも邪魔されない
  • 何でも出来る
  • 障壁がない
  • 自分の思うとおりに生きられる
  • そう、自由である。
これらが大体のイメージでしょう。これらを冷徹な定義でまとめた場合、上記の定義は以下の定義にまとめられると思います。
  • 欲求通りに生きられる
でも考えてみてください。欲求通りに生きると言うことは、欲求というものにはとらわれていることになるのではないでしょうか。束縛されないということは、何にもとらわれることはない、欲求にもとらわれることがないことなのではないでしょうか。欲求さえなければ、何も求めることもない、求めることがなければ邪魔されることもないのでは?

じゃあ、とりあえず欲求を捨ててみてください(この記事は読もうとしてください!)。どうでしょうか。自由になった感じですか? とんでもないですよね。ご飯を食べようとしなければ、テレビを見ようとしなければ、会話をしようとしなければ、音楽を聴こうとしなければ、食べ物に舌鼓を打つこともなく、野球中継に熱くなることもなく、会話を楽しむこともなく、音楽に胸打たれることもない。そう、何も楽しいことはない。何も楽しいことがないって「不自由」ですよね?

欲求通りに生きることが自由でなく、しかも欲求を捨てて生きても自由はない。そういったことがこの思考実験から導き出されます。そう、私は基本的に自由というものはこの世界に生きている限りないものだと思っています。自由は存在しない、のです。

でも、それじゃつまんないですよね。大体そんな考え方をしていたらこれからどう生きていけばいいのか自体わからなくなってしまいます。

私は、「幸福を得ることが出来る自由」というものがあると思っています。幸福になれないことは不自由なものです。本当に自由な、フリーな状態というのは無いと先ほど導きましたが、生きていれば必ず道を選ばなければならない場面にぶち当たることがあります。それならば例えそれが人為的であっても、「幸福な生活を送れる」ということを「自由である」と、そう定義してみると良いのではないか?と私は考えるわけです。

そして、幸福というある種の自由を手に入れるためには、欲求にとらわれなければならない。欲求により行動しなければならない。つまり、「自由とはとらわれること」になるのです。まあ、結局はこう考えると一般的な自由の定義とそう変わらない結論にはなってしまうのですが……。

「自由はどこにもない、だからこそ尊い。」

■(Date Unknown)

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2008年09月13日

短編小説『バラ園』

短編小説二弾目です。今回はあとがきはありません。
Copyright Issues
この小説には冒頭部分においてアニメ映画『時をかける少女』と類似している場面があります。

※この小説にふくまれる細かい設定や発想の原点についてはここでは明記しません。


印刷用PDFバージョン:barean.pdf(PDFファイル、233KB)
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2008年09月11日

リアルとリアリティー(3)

この記事は前記事の続きです。

――テレビシリーズのアニメ作品『電脳コイル』の監督の磯光雄はこう言っています。

「よく『リアルな動き』とか言われるんですけど、自分ではそのつもりはなくて(中略)自分はリアルとリアリティーを分けて使ってるんですけど(中略)まあ、私自身がそういう実写に近づけるリアルさをやってきたんじゃないのか、と言われるかもしれないけれど、自分の中では違っていたんです。リアルじゃなくて、あくまでリアリティーを求めて、受け取る人がそのビジュアルをどう受け取るか、常に考えていました。」(電脳コイルROMAN ALBUMより)

これを我田引水してソフトウェアに当てはめて書いてみると、これはつまり「ソフトには『リアリティー』は必要だが、必要以上の『リアル』はいらない」ということになると言えるのではないでしょうか。つまり本物に似せて作るといいけど、完全に現実の世界の本物と一緒の仕様にしてもいいことはない、と。

結論を導くために、アップルの力を借りましょう。アップルではそのソフトウェア開発の歴史と経験で培った、アップルヒューマンインタフェースガイドラインというガイドラインを用意しています。これはMacのソフトを作る開発者が従うべきガイドラインを示したものです。この文書の中でアップルはこう言っています。(ちなみにこの文章の中の「隠喩」とはハードディスクのディレクトリ構造を実際の世界のフォルダやファイルに当てはめて考えたり、iTunesのコントロールの再生ボタンをよくある音楽プレーヤの再生ボタンに似せて右三角で示したりするという考え方のことです。)

「隠喩は、ある要素の使いかたを示唆する必要がありますが、隠喩の実態に制限する必要はありません。隠喩の示唆する使いかたと、隠喩に対応して拡張する、コンピュータの能力との間のバランスをとることが大切です。たとえば、ユーザがゴミ箱に入れる項目の数は、物理的なクズかごに入る項目の数に制限されることはありません。」

つまりこの文書も「ソフトには『リアリティー』は必要だが、必要以上の『リアル』はいらない」ということを示していると言えると思います。コンピューターのリアルとリアリティーに関する問題の考察は以上です。

■(2008.9.4)

出典:
アップルヒューマンインタフェースガイドライン 
原文:Apple Computer Inc. 
訳:かろでん☆みゅーあ [ http://potting.syuriken.jp/potting_conv/XHIG_J/XHIGIntro/chapter_1.html ]
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2008年09月09日

リアルとリアリティー(2)

この記事は前記事の続きです。

――しかし、アナログなリアルに近づけることがいいことばかりとも限りません。パソコンが得意な作業に検索がありますが、OSをアナログに近づけたいからと言ってこのパソコン独特の機能を削除してはいけません。書類を整理するのにアナログと同じように一枚一枚書類を移動させなければいけないというのもばからしいですし、表計算ソフトでグラフを作るのに鉛筆ツールを用意して、はいそれで描いてくださいというのも意味不明です。コンピュータが得意な面を、リアルを追求するあまり省くのは問題です。

私はやったことないのですが、オンラインゲームとして「モンハン」というものが今はやっているそうです。「モンハン」は「モンスターハンター」の略で(「モンキーハンター」の略ではありません。念のため。)聞いた話によればファンタジーの世界でモンスターを倒したりしながら日常を送るというゲームだそうです。まあ、同じユーザーの仲間とチャットを楽しんだりすることもこのゲームの楽しみ方なのだそうですが、ここで今回の問題が浮かび上がってきます。それはこのファンタジーゲームというものを、どこまで現実と近づけるべきかという問題です。現実に近ければリアリティーが生まれます。「こんな要素まで関係してくるんだ!」とおもしろさも増えるでしょう。しかし、モンハンはあくまでもファンタジーゲームです。だからこそ出来ることがあって面白いの(だそう)です。もし現実と全く同じ世界設定だったら、それは面白いと言えるのでしょうか?

アニメBLEACHのゲームのテレビCMで、こんなキャッチフレーズがありました。

「誰でも強くなれる」

現実の世界というものはなかなか思い通りに事が運ばないのものです。誰でもすぐに強くなれるわけではありません。それに対してゲームの世界というのはちゃんと考えてあります。ゲームを丹念に時間をかけて進めていれば、ユーザーの分身はどんどん強くなっていきます。そういうふうにシステムが出来ているからです。それはポケモンでもなんでもそうです。誰でも努力すれば強くなれる、だからハマる。そういう構図がこのことからは見えてきます。現実とは違うからこそ、面白いのです。

ただし、どんなゲームでもそうなのかと聞かれると私にはわかりません。コンピュータゲームに「Second Life」というオンラインゲームがありますが、こちらはかなり忠実に現実世界を再現しています。ゲーム内で通貨が必要になるのはもちろんのこと、建物を建てるのにも資材が必要だとか聞きました。そしてもちろんこのゲームも人気があります。ただ、このゲームの紹介文を書いていた人はこんなことも書いていました。このゲームをプレイすると言うことはある意味、現実の世界と似たもう一つの世界を一緒にやりくりすることになるだけだ、と。――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

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2008年09月07日

リアルとリアリティー(1)

っと前に私は自作小説『誤送されてきた手紙』(および『誤送2』)でプログラマーの主人公を描きました。その主人公には悩みがあり、それはソフトのインタフェースをどう作ればいいのかという悩みだったのですが、これはこのことが私の悩みと共通のものだからこそ書いたことです。ちなみに私はプログラマーでも何でもなく、java君やgcc君を見つけては「Hello world!」と声を掛けているぐらい(笑)なのですが、こんなソフトがあったらいいなあという空想だけは抑えきれず、時々考え込んだりしてしまいます。

そしてソフトの仕様を考え込むとき、私は必ず悪いクセが出ます。それは「ここがこうなんだからここもこうしなければ」というインタフェースの制限を考えてしまうクセです。たとえば「パレットは便利なんだから全部パレットで操作できるようじゃなきゃダメだ」とか、「T-Timeはメニューから全部操作できたよな、このソフトもそうしてみようか」とか、「これはメニュー操作で出来るんだから要らないインタフェースだろ」とか「同じ操作ができるなら片方は無くした方が操作感の統一に繋がるのでは?」とかです。他にも「このプログラミング言語ではこの動作は出来ないはずだからこのインタフェースは考えない方がいいのでは?……でもあったら便利だよな」とかもあります。

私はついつい操作の仕方を統一することがソフトを使いやすくすることだと思ってしまいます。確かに実際それも正しいのですが、「操作の統一」が「インタフェースの制限」に繋がってしまうと問題です。使いやすいはずのインタフェースが、「制限」によってNGが出されてしまうことになるからです。

『誤送』でも書きましたが、この問題に対する私の結論はこうです。「全てのインタフェースは『使いやすさ』のためだけに統一されるべきだ」と。

すみません、しょっぱなから話が飛びました。今回は「リアルとリアリティー」に関する話でしたね。

で、またコンピュータソフトの話をしてみると、この世の中にはDAWソフトというものがあるそうです。これは音楽を編集するソフトらしいのですが、そのDAWソフトの「ミキサー」と呼ばれるものが今取り上げてみたいものです。ミキサーは各トラックの音量を調節したりエフェクトをかけたりするのに使います。そしてこのミキサーというものは大抵普通のGUIデザインとは異なるものになっています。つまりアナログ時代に使っていた本物のミキサーに似せてデザインして作ってあるのです。

アナログ的なものに似せる」というのはソフトのインタフェースを作る上でコツとなる考え方です。アナログ的な振る舞いをするものは人間が理解しやすく、パソコンに詳しくない人でも扱いやすいからです。たとえばアナログ的(?)なものにGUI部品のスライダーがありますが、これは数値を直接入力するだけのインタフェースより、スライダーをずらして数値を指定することもできる方が断然直感的だということが言えると思います。

使いやすさだけでなく、「お、これかっこいいな」と言うふうにユーザーに思ってもらうためにもアナログ的なインタフェースは有効です。もう名前は覚えていませんが、このブログでも勝手にリンクさせていただいているPISCESさんのところのブログで紹介されていたYouTube視聴ソフトに、その一端が見られます。そのソフトは動画を表示させるときに一瞬だけ「砂嵐」を表示する機能があるそうです。(「砂嵐」とはアナログなテレビでときたま見るザーッとした白黒ノイズの画面のことです。)――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

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2008年09月05日

詩『STEREO』

そろそろとなり出すイントロ
チッチッチッチと入るハイハット
転がるようにドラムが急降下したら
いざ爆音!

軽快なテンポで間をおいて
ヘビーなベースがそこを押し上げる

コードがうなる 重みが、重なりが心を圧迫する
落ち着いて、高鳴らせて、安定して、破壊する!

ストリングスのスリリングな響き Solo starが心を惑わす。
シンセがシューシュー音を立てる
魅惑の波形 音符が跳ねる

バレーのエレキが泣き叫ぶ その暴力的な圧倒感で
シールドが火花を散らす
エフェクターが音を歪める
アンプが電気を波動にかえる

トランペットが宣言する パーカッションが味を加える
声でスクラッチを当てたら? もう叫ぶしかないぜ!

音が力をまとい 解れて
全ての響きがハーモニーとなる

かきたてるように せき立てるように
まだ足りない まだ足りないぜスピードが
もっと速く!速く 駆け抜けろ!

刻むような細かいリズム 手も足も追いつかない
取り乱さないように 一つ一つ受け止めなきゃ

心をふるわすのは
コードのこころ?
ステージの熱狂?
暗闇を照らすライト?
君の投げかける言葉?
それとも……

これだから音楽はやめられない!

■(2008.8.6)

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2008年09月03日

短編小説『夏の終わりに』

田舎にいる間に書いた短編小説を載せたいと思います。
dialog-warning.pngこの作品のオリジナリティーに関する注意
この作品はNHKで放送中のアニメ番組『テレパシー少女蘭』のある回の内容(8月30日放送分)とストーリー展開が酷似しています。この作品が書かれたのはテレビ放送より少し前(8月26日頃)ですが、この作品のオリジナリティーに関わってくる問題だと思うのでここにそのことを記しておきたいとおもいます。ちなみに『テレパシー少女蘭』はあさのあつこの原作だそうですので、原作が書かれたのはさらにもっと前でしょう(私は読んだことありません)。もしかしたらこの小説を載せる意味はもう無くなってしまったかもしれませんが……他にちょうどよい記事もないので一応載せておくことにします。


テキストバージョン:roght.txt.zip(ZIP圧縮、テキストエンコード:Shift JIS・CR+LF)
印刷用PDFバージョン:roght_snprint.pdf(PDFファイル、281KB)

※印刷用PDFバージョンはNeoOfficeで組版したため文字の配置に多少乱れがあります。ご了承ください。

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I offer this work under the following two licenses:

・Copyright Version: (c) 2008 All Rights Reserved. To redistribute this work under this License, Please Contact me [tripwcaps(at)yahoo.co.jp]
・Copyleft Version: This work is licensed under the Creative Commons Attribution-Noncommercial-Share Alike 2.1 Japan License.
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お知らせ:更新を再開します(08.9.3)

田舎のほうから帰ってきたのでまた更新を再開したいと思います。前更新を停止するときのお知らせで、「よくないお知らせがあるかもしれません」と書きましたが、一応それは回避できました。

「それ」とはいつもお世話になっている田舎の祖父のことなのですが、胃がんの手術後に肺炎を起こして意識がない状態になっています。峠は越したとのことですが、まだまだ心配です。少しずつでもいいから肺炎が治まって意識が回復することを願っています。

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