2009年03月30日

詩『春を越えて』

テーブルの上のチケットを前に
組んだ両腕にアゴを載せて、さっきからずっとうつむいてる
午後11時40分
ただ、時計の針だけがすぎていく

僕は、一体君にどう顔を合わせればいいのだろう
どんな顔して会えばいいのだろう
詩集の入ったカバンを部屋の隅に
チケットに書かれた君行きの標し
君行きの、一枚の航空便

ほんとは楽しみなはずなのに
すこしでも早く行きたいはずなのに
待ちきれなかったはずなのに
なんで、なんで僕はさっきから一歩も動かず
ただテーブルの上の紙片を見つめているのだろう

――遠くに電車の離れていく音がする

電灯がフツフツうなり続け
冷蔵庫が急にふるえだして、僕は我に返る
ため息をついてチケットを
どうすることもできないまま、またカバンにしまう――

僕は何も変わってなどいないのに、
去年君と別れたときから、何も変われてなどいないのに
一体どうすればいいというのだろう
「そばにいるよ」と言った言葉も
君を見て心の中で誓った約束も
まだ、3割も果たしていないのだから

毎年来る、君に会うこの季節

君とまた別れなければいけないことを考えると
君に会うのも恐くなる
いっそ二度と終わらなければいい
草葉が濃い緑のままならいい
ただ、キラキラと輝き続けて
永遠にそのままならいいのに…… 

次の朝、布団を干すと、鼻にさわる透明な風の匂い
たなびく雲は昔と同じように今に浮かぶ
自分の心をふるいたたせるように、布団をたたく
ただ同じ間隔で、たたき続ける
外の地面を見ると雪の跡は、もうない
春の空気の中を、僕を誘うように
先乗りした飛行機が空を裂いて上がっていった

中に戻ってテレビをながめて一休みすると
高くなった日の光が床に差し込む

そして今度は布団を取り込みに行くと
乾いた土の上に、忘れたままの緑色のサボテン
ざらざらしたベランダの上を歩いていって、布団のピンチを外すと、
取り込んだ布団はふわふわで、太陽のにおいがした

布団を取り込み終わった僕は
押し入れにきれいにそれらをしまいなおすと
シャツの襟を直して
床に用意していたカバンを引っ掴む

そうさ、
先の事なんて見えないけど、でもこれからだって、
たくさんの出来事があるだろう
たとえ今は心に掴めなくても 描けなくとも
そのありふれた時間に
君のいない青空などないのだから

春を越えて、君のもとへ
君とのまた新しい季節へ――

僕は、いつもの靴を履くと、外に出る扉の鍵を開けた。

■(2009.3.7)

来年再びこの季節が来るときには、私も何か変われているように願いたいです。



posted by whitecaps at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月28日

TVの、これから

一週間ほど前だったかな、と思いますが、NHKのシリーズ番組『日本の、これから』で、テレビはどうなっていくのか、と言う話題を扱っていました。つまり、インターネットやワンセグなどが発達していく中で、テレビに居場所はあるのか、ということです。

番組の冒頭で、居間にテレビが欲しくて古物屋から年代物のブラウン管テレビを買ってきてしまい、家族と立ち回りを演じたすえにようやくテレビを据え付けることに成功する、という老人のミニドラマの話がありましたが、年代によってはテレビにとても愛着や思い出を持っている、そういう人たちもいるんだろうな、とそれを見て思いました。

ただ、およそ今の私はインターネット派です。その情報量、双方向性、多様性、即応性から、これからのメディアの主役はインターネット以外にないと私は思っています。これはほぼ確信です。しかし、そんな私も昔は「インターネットなんて危険で、くだらない。テレビが一番のメディアだ」と思っていた頃があったのです。

わたしはNHKの歴史番組『その時歴史が動いた』(この前最終回を迎えたそうですが)を第一回から見ていたコアなファンでしたし、その兄弟番組のプロジェクトXもとても思い出のある番組です。今でも私はNHKスペシャルを越えるドキュメンタリーは存在しないとも思っています。そしてわたしは子供のころからチャンネルの中でも特にNHKが好きで、それを見るのが当たり前だと思っていたので、学校の先生が「うちは受信料払ってないからNHKは視ていない」と言っていたのを聞いてカルチャーショックを受けた記憶があります(笑)。

私はインターネットのメリットに双方向性を挙げましたが、私は一方向メディアであることは別に悪いことではないと思いますし、それが良さを持つことがあるとも思っています。およそテレビの中途半端な双方向機能は人気があるとは聞きませんし、その、なんていうか、「一方向を受け止める」という、そういう姿勢にも意味があるんじゃないかと思うんです。

私は子供のころ、大事な番組を見るときには体育座りをしてみていました。適当な気持ちではなく、その画面のすべてからあふれてくる、伝わってくる情報、質感、奥行きを、すべてこぼさずに捉えようとしたかったからです。私はその頃は頭の中でいちいち感想をつけながらテレビを見るということはしませんでした。それが良いことかと言うと違うとは思いますが、思考を停止してでもそれそのものを受け止めたかったんです。それって今から思っても人がメディアと関わるとき、時に重要になってくる姿勢なのではないかと私は思います。

実際のこれからのテレビの形態は変わっていくかもしれません、デジタル放送にしてもそうですし、コンピュータ関係からもApple TVとかYouTubeがテレビで見れるようになるとか、そういう話もいろいろあります。ただ、そう言った時代になっても、私は先述の姿勢を心の隅に置いておきたいと思っています。そして実際の番組制作においても、整った設備の中で実地でコンテンツを作る優位性を考えると、テレビ局はやはりこれからも番組製作の中心にありつづけるんじゃないかな、と思います。

■(2009.3.26)

ラベル:NHK
posted by whitecaps at 15:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月26日

SeesaaとTumblr

すみません、最近更新滞っています。でも何も書いてないわけじゃないんです。実は最近はそのほとんどをtumblrの方に書いています。じゃあ、なんでこっちじゃなくてtumblrなのか、なのですが、今回はSeesaaとtumblr、その性格の違いについて書いて弁明とさせていただきたいと思います。

tumblrを使うようになった訳

tumblr はいわゆるミニブログと言われるジャンルのブログサービスです。ミニブログと言うことで、機能は通常のブログサービスよりかなり限られます。しかし tumblrは機能が絞られている分、非常に投稿者にとってユーザフレンドリーなインタフェースになっているんです。

わたしはこれまで日常の日記的なことはブログには書いてきませんでした。ブログ自体は様々な利用方法がありますが、大抵は日記的なことを書くために使われていますし、実際ブログサービスの本来の目的はそうです。でも私はただ単に今日これがあってこんな感じだった、とか、リンクだけ貼って別のサイトに誘導するような、そう言ったブログは私が目的とすることではない、と思っていたのです。なのでなるべく形の整った、厚みのある文章――コラムとか――を載せていこう、と思って今までやってきました。

しかし、まあそれがなんだというのは説明しがたいのですが、日記的なことも書いていこうかなと心境の変化がありまして、それを書くための記事投稿場所が必要になりました。でも、やはり私としてはSeesaaは今までのような形のしっかりした記事を載せていきたいと思ったので、そこでそれまでWhite Boardの一言欄からの派生としてつくっておいてあったtumblr側のブログの方を、こういった日記的なことを書くことに使っていこう、と思ったわけです。

Seesaaの長所・短所

私は昔Exciteブログを使っていました。おそらくExciteもいいブログサービスなのですが、アフィリエイトが出来ないと言うことだったので、そう言う理由があってその頃の私は別のブログサービスを探していました。そして本屋で立ち読みした本のリストの中で、無料で、そして総合的にみて一番サービスが良かったのがSeesaaだったんです。なのでわたしはSeesaaブログを選びました。

Seesaaブログはとても高機能、且つ無料です。ブログサービスによってはブログに広告を入れなければいけない、と決まっているサービスもありますが、Seesaaはそのようなことはありません。時々精力的に新機能をリリースしているし、しかもその機能は大抵利用するかどうかはユーザーが決められます。使いたくない機能があれば設定画面で無効にすればいい仕様になっているのです。とても親切ですよね。

ただ、tumblrを知ってからは、複雑な記事投稿画面を見るのが少し嫌になってきてしまいました。Seesaaブログは高機能な分、設定しなければいけない項目が多いのです。もちろんそれらの設定にふれずにいれば何も問題ないのですが、それでも目に邪魔に映ってしまうんです。

tumblrの長所

tumblr は機能はもちろん限られるのですが、それなりにカユいところに手が届く仕様になっています。通常のテキスト投稿はもちろん、(1記事に付き一つだけという制限付きではありますが)画像や音声ファイルをアップロードして記事の主題にすることが出来ますし、Quoteと言って言葉の引用そのものを記事にしたり、リンクを目的とした記事投稿形態もあります。また、(私はしたことがないのですが)動画もEmbedできるようです。これらはミニブログという形態だから、そう言ったちょっとした内容の記事、あるいはリンク記事のようなことを投稿しても私にも不自然でないと感じられるのです。

そしてtumblrでもテーマを選んだりブログをカスタマイズすることは可能です、tumblrでは(少なくとも私が使ってるテーマでは)画像を投稿すると、自動で記事横幅に合うようにリサイズされます。元の大きさの画像にその画像をリンクさせることもやはり行えます。Seesaaにもサムネイルサイズの設定はあるようですが、選択したテーマによってデフォルトで調節されるかというとそうではないようです。また、tumblrでは簡単に、画像に他のページへのリンクを貼ることができます。

tumblrを使う上での利点は、「更新性」ではないかとも思います。ブログの記事というものはその時その時書くものですから、後から見て「こここう直した方がいいよな」とか「あ、誤字があった」とか、あるいは追記しなければいけなくなったとか、そういった後からの更新が必要になってくることがあります。そのとき問題の部分を見つけ出して、簡単に修正できる、というのは重要だと思うのです。その点tumblrはインタフェースがシンプルなので、こういった更新を気軽にできます。最近私は文章の完成度を上げるためにはどうしたらいいのかなーと悩んでいるのですが、そう言った事って画面に目を凝らして無理して直していけばいいのか、と言うとそうでもないと思うんです。「面倒なことをさらりとやれる」システム的優位性がいるんじゃないかと思うんですよね。それをtumblrはちょっとばかり実現してくれてるんじゃないかと思います。

tumblrの欠点

tumblr にも欠点はあります。tumblrはミニブログなわけですから、どうしても機能が制限されていて出来ないことがあったりするのです。たとえばtumblrでは記事内での文字の大きさ変更は適用できなかったように思います。また、HTMLエディタ画面でいじれば可能かもしれませんが、エディタ上部のボタン類には文字色を変えるボタンはありません。先ほども書きましたが、画像や音声のアップロードは1記事に付き一つまでなので、たとえばスクリーンショットをいくつか並べて説明する、と言ったことも出来ない訳です。基本的にアップロードというそのものの機能はないので、アップロードできるファイルは記事と直接関係のあるもので、形式も限られます。また、tumblrにはアクセス解析機能もありません。自分のブログにどれだけ人が来ているか全くわからないんです。そしてなによりtumblrサービス自体に日本語版がありません。記事内で日本語を扱うのは問題ないようですが、インタフェースは全部英語です。

tumblr は本来引用を主体とするブログ形態なので、ホームページの内容をコピーして、クリップボードからリッチテキストエディタに貼り付けると、その書式がそのまま貼り付けられます。便利と言えば便利なのですが、私においては書式をそのまま使うことはまず無いので、いちいちテキストエディットに貼り付けて書式設定を失わせてからまたコピー・ペーストしなければいけません。もしかしたらFirefoxの拡張とかで、クリップボードからプレーンテキストを(コンテキストメニューとかで)指定して貼り付けるようなものがあるかもしれませんが、少なくとも今の私のFirefoxにはそう言った機能は入っていません。だからちょっと面倒です。

結論。

Seesaaがtumblr的インタフェースを身につけて、高機能かつシンプルなブログサービスになるか、tumblrが機能制限を緩めて、もう少しばかり高機能になるか、と言うのが考えられる一番いい解決策でしょう。でもそれを決めるのは Seesaaスタッフやtumblrスタッフであって私がどうこう言うことではないので、とりあえず私自身は両方のブログサービスをうまく使い分けていけばいいのかな、と思っています。どういった基準で使い分けていくかはこれから考えないといけませんが……。わたしはSeesaaブログにも愛着がありますし。
ラベル:Seesaa tumblr
posted by whitecaps at 12:57| Comment(0) | TrackBack(0) | コンピューター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月24日

MIDI vs. 生楽器

わたしはMIDIに詳しいわけではありませんが……

tumblrのほうでいくつか書いている学校の上級生の卒業式の話ですが、卒業を祝う会が終わって、校門前でいろいろ先輩達と話し込んだとき、成り行きで(どういう成り行きだったかは忘れましたが)MIDIと生楽器の話になりました。(←完全私の趣味だ。)たしか演劇部の部長さんの人が「まあ、(劇を)録画したものと生では違うんですけどね」みたいなことを言っていて、そんな話になったんだとおもいます。

MIDIはコンピュータや(たぶんシンセとか)を中心とする音楽機器での演奏情報のやりとりをするための統一規格で、曲の編集の技術にも使われますし、MIDIファイルという演奏情報を記した一種の音楽ファイルとしても使われます。本来のMIDIは厳密な定義があるのかもしれませんが、このコラムではソフトウェア音源のデジタルミュージックという意味でこの言葉を使わせていただいて、話を進めたいと思います。

で、MIDIというものはパソコン上で曲を作るわけですから、どうしても機械的になるものです。普通に打ち込めば、どの音も全部ピッタリ同じ音量、同じ強さ、同じタイミングで同じ速さ、となるのです。それはMIDIを好まない人から見れば欠点なのですが、でも私が昔読んだある本では「それは長所と捉えることも出来る」とも書いてありました。曲の演奏というのは例え人間がする場合であってもかなりな正確性を求められるものです。それが音楽の本質ならば、MIDIの正確性も悪いものではない、と言うことでした。

また、MIDIはソフトウェア音源なので機械的な音と言えばそうなのですが、高価で重い音源を入れれば品質の高い生楽器的な音を作ることは可能です。先ほど「同じ強さ、同じタイミング」などと言いましたが、(あくまで機械的設定であるとはいえ)MIDIでも音の強さを1音1音調節したり、リズムを変則的にしたりと言う作り方も制作ソフトが対応していれば可能なのです。また、MIDIでは生楽器の録音データを曲に組み込んで、ソフトウエア音源と同時に鳴らすこともできます。

そして、MIDIでもコンピュータにMIDIキーボードを繋いで、そこからMIDI録音するということも可能です。こうすれば普通のピアノと同じように、人間のわずかな演奏のタイミングのブレというのもそのままコンピュータ上に記録することも出来ます。ただし、先ほど書いたようにMIDIの正確性を長所と捉える人は、このブレをわざわざソフトのクォンタイズ機能で補正したりする事さえあります。(クォンタイズと言う機能はピッタリのタイミングをわざとブレさせることも出来るそうですが。)

完成された曲を作るための上での生楽器を使う意味は、ソフトウェア音源では作れない音色を出したり、その曲に人間的なブレを与えるためにあるわけですが、先ほどのように品質の高い音源を使ったり、わざとMIDIをヒューマノイズさせたりするという機能があると、その生楽器としての意味は薄れてしまうことになってきます。なので、じゃあ、生楽器ってなんのためにあるんだ、って話になってくるのです――。

こんな話をしましょう。去年の夏、私は専門学校の体験授業でコンピュータミュージック科のコースを受講したことがあったのですが、その時その受講教室のある建物まで案内してくれた学生の方(そのコースをとっているわけではない)は、ドラムをやっていると言っていました。その建物のスタジオにドラムが置いてあり、時々秘密で(?)練習していると言うんです。私がドラムプログラミングというソフトでドラムの音を演奏させることが出来るんですよ、と生意気にもお教えしたところ、その学生さんは「それはそのコンピュータミュージック科で扱うことだね」と言いつつ、「でもやっぱ生ドラム」と言っていました。その言い方には「生で演奏することが楽しい」と言う気持ちがにじみ出しているように感じたんです。

ということで私は、生楽器はおそらく生で演奏する(ないしそれを録音する)ためにこそあるのだと思います。わたしはスキマスイッチのライブDVDであるW-ARENAがとても好きでいつも聴いているのですが、たとえW-ARENAと全く同じ音響をMIDIで再現できたとしても、(興味はわきますが)でもそれを崇める(?)ことはありません。ライブはたとえ機械の手助けは借りているとは言っても、やはりそこでリアルタイムに人が演奏してそれぞれの演奏者が同調し観客もその音を感じて、そしてあるいはそれが記録される、と言うことに意味があると思うのです。それはどんなにMIDIが進化しても、失われることのない価値です。だから私は生楽器というものは消えることはないと思います。

おまけの話……、

ある先生に昔、「わたしはパソコンで作曲しているのですが」と言ったら、「作曲するなら楽器を扱えた方が何かといいよ」と言われました。わたしはパソコンで打ちこめればいいからと、別にそれでも音は作れるからと、あまりその必要性には納得していなかったのですが、今ギターをさわっていてその言葉の意味をひしひし感じます。パソコンに音を打ち込んでいくのよりも、断然ギターでコードや旋律をならした方がアイデアに対する応答速度がいいのです。また、演奏という制限によってかえって音に方向性が生まれる、と言うこともあります。およそ私の演奏スキルではギターを生楽器として曲に入れるなどと言うことはまず出来ませんが、それでも作曲という面に置いてだけでも、手元に楽器があるというのは大きなメリットなんだな、と思い知らされています。

■(2009.3.24)

ラベル:MIDI
posted by whitecaps at 14:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月21日

BGM『静寂のパガテル』


tumblrの方に先に載せたのですが、一応こっちにも載せておきます。

久々にそこそこ長さのある曲になりました。まあ、ほとんど単調なメロディーの繰り返しでトラック数も少ないし、だから作れたのですが、かなり心落ち着く静かな曲になってくれたと思います。

作るにあたっては、結構ヴェロシティーとか音量とかエコーとか気をつかいました。最後のギターをゆっくり鳴らすところではマスターテンポのオートメーションを使いたかったのですが、そうしたらGarageBandが変な音をだしたので、ノートを動かして再現。GBのFXループに感謝です。
ラベル:GarageBand
posted by whitecaps at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月17日

詩の心(後)

この記事は前記事の続きです。

――でも、先ほども言ったとおり数学というのは結構ひらめきです。たとえば私が『これから高校で数学を学ぶ君へ』で書いた、1+1=2となるという「数学の大前提」も、確かに誰でも正しいと思いますし、そうとしか言いようがないし、実際正しいんだと思います。でもそれを証明しようとした人も、できた人も歴史上誰一人としていません。もし1+1=2と言うのが間違いだとしたら、これまで数学者たちが築き上げてきた全ての数学の理論は紙クズ同然になります。もしそうなら微分積分もフェルマーの最終定理の証明も全く意味を持ちません。前提が間違えていれば、そこから導き出す答えも間違いになるからです。

たとえば、中学で習う図形の証明を思い出してください。全ての図形に関する証明は、「対頂角、錯覚、同位角は等しい」という定義から導き出されます。これは定義ですから人間が決めたことです。確かに誰が見てもそれは正しいですし、実際正しいのでしょうが、でも中学校の先生が「これらはどう見ても正しいから、数学の図形の証明ではこれらを元にして考えていきます。」と言っていたとおり、あくまでも「正しいっぽい」からそう決めたと言うだけのことであって、誰もそれを証明した人はいません。て言うか証明することはできないでしょう。

昔一度だけこの疑問をある先生にぶつけたことがあります。その先生は「でも、これら三つの形態の角(つまり対頂角、錯覚、同位角)のうち、二つを使えば残りの一つの角も正しいと言うことは導き出せるよ」と言われて、ああそうか、と思ったことはありました。確かに図を書いてみるとそれは正しいのです。しかし、それでもやはり「残りの二つの角の定義が正しい」と言うことが証明できないと、それさえも証明出来ません。

ただ、私が言いたいのはそういうことではありません。私が言いたいのは「1+1=2になるかどうか証明できない」からと言って、たとえば三角関数も正しいかどうかわからないなんて言っていたら、測量すら行えなくなる(三角関数は測量の技術にも使われています)、社会が動かなくなる、そして人間が現在持っている豊かな生活さえ崩れてしまう、と言うことです。 1+1がなぜ2になるのかなんて言ういつまでも解けない問題を前にして立ち止まるよりも、どうもそれっぽい(!)から、やっぱり三角などのそこから成り立つ数学理論も正しいんだと言うことにしておいたほうが実際の生活にはだいぶ役立つと言うことです。(うーん、でもこれなんか『これから数学を学ぶ君へ』で書いたこととだいぶ矛盾するような話になってきたな。)

とにかく、詩を書くときも、脳がどうそれを作り出しているのかわからないからそのひらめきを採用しない、なんて言っていたら脳科学が完全に解明されるまで詩そのものが書けなくなります。なんかおかしな言い方ではありますが、「実際的に考えて、ひらめきを受け止める」と言うことが必要になることもある、と言うことです。つまり、理解できることはもちろん使えるし、理解できない直感が生み出すアイデアも、また使わないわけにはいかない。と言うか、使えるなら使っていこうじゃないか、と言うことです。

私が歌を聴いていてよく思うのは、言葉としては真逆のことを書いているのに、どちらの詩も良い詩だったりする、ということです。例えば「飛べるよ 君にも」と歌っているMr.Childrenの『and I love you』も名曲だと思いますし、「空も飛べない僕だけど」と歌っている平井堅の『POP STAR』も私は好きです。(え、「君」と「僕」が違うじゃないかって?) 館ヒロシは「泣かないで」と言う有名な曲だけでなく、「泣いていいよ〜cry out」と言うタイトルの曲も作っているというハナシですから、そう言うことはあり得ると思います。

じゃあ、矛盾してるのかって言うと、そうでもないと思うんですよね。私の詩の話になりますが、『White Graduation』でも「どうか、雪よ降り止まないで この白いままの世界をとどめて そして、雪よ降り止んで」という部分があります。最終的な主人公の気持ちは「雪よ降り止んで」ですが、(別にそこまで考えて作ったわけではないのですが)それと共に主人公には「今を大切にしたい」みたいな、あるいは「例えどんなことでも僕らは受け止める、変えていける、だから今は、雪よ降り止まないで」という心の叫びみたいなものを同時に抱えているんじゃないかと思うんです。そしてそれらは心の中に同時に存在していて、決して矛盾しているものではないと思うのです。先ほどの歌詞を含め、一見矛盾しているように思えるこれらの歌詞ですが、「詩の心」という視点(いうなればこれは論理的な視点ともいえます)から見れば、やはり一貫したものなのだと思います。

最後に一つ。なんとか3級品の二次著作的詩を(……)書き続けている私ですが、私もスランプにおちいって詩が書けないことがあります。書けそうだと思っても、その周りの言葉が思い浮かばない、続きが書けないことがあるんです。そうやって二つくらい詩のアイデアを駄目にして、しばらく経ってひょこっと別の詩を書いてみると、うまくまとまった、なんてことがあります。しかもその詩はけっこうダメになった詩からヒントを得て書いていることがあるんですね。だから私は詩を書こうとするのをやめようとは思いません。これからもなんとか書き続けられるだろうと思っています。



――うーん、もう一つぐらいコツがあるけど、もっとクサくなるからやめとこう。

■(2009.3.14)

ラベル:Mr.Children pop star
posted by whitecaps at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Pencilで超簡単なデモアニメーションを作ってみた

お知らせ:『詩の心(後)』は次記事で載せます。


tumblrの方で紹介したオープンソースの(簡易)アニメーション作成ソフトPencilで、どこまでこのソフトが使えるのか知りたくて作ってみたデモアニメーションです(題は『風船』)。tumblrの方に載せたかったのですが、tumblrでswfが扱えるかわからなかったのでこちらに。微妙にCPU食うし、アニメーション内容自体に意味はないので、Pencilに興味がある人だけ「こんなもんか」と思ってください。

私はFlashを少しだけさわったことあるような記憶があるのですが、PencilはRETASと比べるより超低機能版Flashって感じと言った方がいいかもしれません。こんなアニメーションですが、使い方がわからなくてつくるのには苦労しました。ちなみにビットマップレイヤーや音声レイヤーはSWFには書き出せず。ムービー形式ではそれ自体の書き出しも無理でした。
ラベル:Pencil
posted by whitecaps at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | コンピューター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月15日

詩の心(前)

先輩が「僕には詩を書くのはムリだ」と言っていたので、なんで自分は(自分で言うのもなんですが)詩を作れるのかということと、僭越ながら詩を作る上での私なりのちょっとした心構えに関して、数学の長ったらしい話を交えながら、今回は思いを巡らしてみたいと思います。tumblrに書こうとしたんですが、長くなったので本ブログに。

私はこの2年ほど詩を作り続けています。それまでは世間で流れている歌はいろいろ聴くし、好きではあったものの、詩を自分で作ろうとは思ってもいませんでした。人が詩を作っているのを見てもまったく興味を持たなかったほどです。でも作り始めた当初は短いものだけだった私の詩も、最近は長くなってきているという傾向を感じます。(それがいいのかどうかというのは別の話ですが)

正直言って今の自分が何で詩を作れるのか自分でもわかりません。どこが前の自分と違うのかもわかりません。別に頭の中のアイデアを図に描き起こしてから言葉を繋いでるわけじゃありませんし、フレーズを繋げていると自然と詩が出来ます。

でもクサい話しをさせていただくと、詩というものは「心」がないと作れないんだと私は思います。まあ、なんというか、漠然としてででもいいから、あるまとまりを持った「イメージ」みたいなものがないといけないということです。私は(詩ではありませんが)歌を聴いていて短編小説のアイデアが思いついたり、詩も大抵視覚的なイメージがあってそこから作ったりします。なんていうか、心がないと言葉が生まれてこないんですよね。(ただし、絶対に先輩に心がないなんて思ってませんからね。そういうことではなくて、それは詩を作るコツみたいなものを知っているかどうかなんだと思います。それはもっと下の方の文章を参照してください。)

時々世間の歌を見ていて「これはよい意味の言葉を並べて作っただけの詩だな」と思うことがあるのですが(でもそう言うのにかぎってよく読んでいると結構気に入ったりする)私はそう言う詩の作り方はあまりしたくありません。それでは詩を作る意味がないと思うからです。ただ、UVERWorldの『儚くも永久のカナシ』の歌詞を見て、最初はこの歌詞は適当に言葉を並べているだけなのかと思ったのですが、後でよく読み直してみて、「実際はとてもよく考えて作ってある。これは神作詞だ!」と考え直したりしたこともありました。

でも心がどうの言ったってよくわかんないと思うので、もっと実際的なコツを書いてみます。私は詩を作るためには「実際的になれ」と言いたいと思います。

実際的になる、とは、ひらめきをそのまま受け止めろって事です。論理的な思考をしようと思うと、「ここはこうだから、ここはこうしなきゃダメだ」とか「この言葉の意味は矛盾しているからやめよう」とか思ってしまいがちですが、詩というものは(実際的に考えると)表現なわけですから、「表現として良ければそれは詩としては正しい」のではないかということです。

私がこの前の記事の『これから高校で数学を学ぶ君へ』で昔の担任の先生のことを書きましたが、私はその先生にこの「実際的になれ」ということを教わったような気がします。いや、別にその先生はそんなことは一言も言ってないし、先生自身そう思っているかどうかわからないのですが、でもその先生はとても現実的な人で、それでいて行事を盛り上げる主力となれる、そんな先生でした。

数学というものは論理的なものだと普通の人は思うと思いますが、私は結構ひらめきによるものが多いと思います。ある問題を出されて私が全然解き方がわからなくても、教科書とか数学の先生というのは「ここでAと言う考え方をしてみると、こうなるから、この問題はこういうふうに解けて、だから答えはこうなります」とか言ってのけてしまうのです。一見論理的なように思えますが、でも私からしてみれば、その「Aと言う考え方をしてみると」って言うのはどっから導き出すわけ?と思うわけです。わたしにはその繋がりがまったくわからないのです。これはつまりひらめきです。

私は自分にとってよくわからない理論は利用したくない方です。なぜなら、理解していないものは不確実だと感じるからです。ひらめきというのは天から舞い降りてくるようなもので、やはり不確実なものと言えます。なので、私はひらめきに従ったりして何かを判断する(まあ、芸術に関してはそうは思っていませんでしたが、特に数学とか「本来論理的であるはず」の分野においてそう言う考えをする)のを嫌っていたんです。私は「こうなるからこうなる」、とか「A+B→C」とか、そう言う繋がりのはっきりわかる、流れ的な考え方だけしか使いたくなかったんです。

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

posted by whitecaps at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月13日

お知らせ:しばらく更新を休みます。【09.3.13】

作業フォルダを見ていたら、もう詩以外にストックがないことがわかりました。最近怠慢だったからなぁ……長い記事いっぺんに載せちゃったからなあ……tumblrに載せちゃうもんな……。

と言うわけでしばらく更新を休みます。小説の企画自体はたくさんあるのですが、新しく思いついた小説の構想で頭がいっぱいで、全然進んでいません。

なんだろう、Seesaaの高機能なブログサービスがtumblrのような使いやすいシンプルなインタフェースで実現できたら最高なんだけどな……。
posted by whitecaps at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月11日

詩『White Graduation』

今日も雪だね、
道ばたで会った君がさみしそうに呟く
新聞の天気予報もずっと雪
実際、空からパラパラと粉雪が舞い落ちる

道はすべて白いものにおおわれて見えず
ずっとまえから踏みつけられつづけて
かたくなったシャーベットみたいなデコボコがあちこちに
木々の枝にも校札の上にも
白くはみ出した雪のかたまりを、ベレー帽のようにかぶっている

空よ、なぜそんなにも冷たいか
今日は、僕らの卒業式なのに……

咳払いさえ響く静かな体育館で
僕らの最後の式が始まる
希望の歌、先生への歌、友情の歌、未来の歌、
でも、窓の外の雪は降り止まない
いや、降り止むどころか、より強く降りしきっている

桜吹雪の中で旅立っていったのは
もう何年も前の先輩の話だ

最後に僕らは別れを告げる
友達も先生も、彼氏彼女も、淡い思いのあの人も
みな、ひとまずの別れを告げる
もうこの場所に席を置くことはない
戻ることはない

コサージュの針を校庭の一本桜の枝にからませ
僕らは校門を出る

桜が雪の中につぼみをつけても
僕らがこの舎から旅立っても
僕らの前に春はもうやってこない
ただ、僕ら人間のしてきたことを咎めるかのように
そして実は、心の裏で祝福するかのように
地球はそうあり続けるのだ

そして雪は降り続ける
僕ら次世代がそれを背負って、
ありのままの姿へ変えていくことを求めて

どうか、雪よ降り止まないで
この白いままの世界をとどめて
そして、雪よ降り止んで
ただ、僕らは雪解けのせせらぎの上に
淡い空と共に、健気に咲き誇る桜が見たい。

■(2009.3.11)

posted by whitecaps at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月08日

求めるほかに道はない

お知らせ:『そのコード、異端か革命か』は文章全体の構想が大きいので、書き上がっている一部の文章だけ前回の記事として先行して載せました。いずれ続きも書くつもりですが、それらが仕上がるまで掲載は間が開きます。

いきなりな質問ですが、「求める事」って、果たして正しいことなのでしょうか? 私は何かにつまずいたとき、どうしてもそんな疑問が思い浮かぶことがあります。

「求めると苦しくなる」という言葉を聞いたことがあります。たとえば「なにかをもっとうまくなりたい」「もっと上に上がりたい」「もっと楽な暮らしをしたい」と思ったとき、それは求めていると言えますが、でも、それらは叶えられることばかりではありません。無い物ねだりをしてもただむなしいだけのように、叶えられない望みがあると、心は苦しくなります。そして無いものをねだっても叶いようがないのですから、苦しくならないように、求めることをやめる、そうした方が心中は穏やかに暮らせるよ、と言う意味をこの言葉は持っているということのようです。

でも、私は今、常に求め続けています。さっきの話は本当のことだと思いますが、でも私は求めます。一体なにを求めるのか?って聞かれても答えられないのですが、でも、何かを求めていると思います。そして私は求めることは重要であると思っています。求めない生き方なんてあり得ない――。そんな生き方は自分にはできない。そこで、なぜ私がそう思うようになったか、と言うことを今回は書いてみたいと思います。

すんごい急な話でなんなのですが、私は昔、性欲というものを憎んでいました。

私は小さい頃、冷静で落ち着いて上品でいることこそが美徳だと考えていましたので、「平常心」というものをとても重要なものだと考えていたのです。常識ある行動ができる、感情に流されない、つまらないことで怒らない、そう言う性質が大事だと思っていたんです。

それに性欲とは淫らで、嫌らしいものってイメージが強かったですから、受け入れがたいものでもありました。大人は性という存在を子供に対しひた隠しにし、子供がその存在に触れようとでもしたらその手をはたき落としますが、私は大人のそう言う態度を見て、自分も性欲というのは「悪いこと」なんだ、タブーなんだ、という認識を小さい頃から無意識のうちに持ってきました。特に、それが人間の平常心を乱す、と言うことを一番私は嫌っていたんです。

私は先ほども言ったとおり平常心というものを大事にしていました。偏向した考えは持ちたくなかったし、政治的な思想においても右でも左でもなく、でもちょっとだけ左の中道左派を自称していました。この「平常心」とか「中道」と言う言葉を、私が今使っている言葉に置き換えると、「ニュートラル」と言う言葉になります。えーっと、どっからそんな言葉が来たのかというと……。

「ニュートリノ」って聞いたことありませんか? あのノーベル賞を受賞した小柴さんがカミオカンデって言う地下のでっかい装置で存在を実証した素粒子の名前です。物理の素粒子学の分野です。ニュートリノは何でこんな名前がついたかって言うと、電気的に中性、つまり+の電荷も-の電荷も持たないからこんな名前なんですね。その語源が「ニュートラル」、つまり「中性」と言うわけです。

私は昔、人間において平常心、真のニュートラルとは何かを考えてみたのですが、これは簡単な話ではありませんでした。それは例えば日曜日の午後にコーヒーをすすってリラックスしているときでしょうか?……ニュートラルってつまり平常心ですからね。それとも、寝て意識がない状態がニュートラルでしょうか。寝ていれば何もしない、感じていないからニュートラルかな? でも、寝てても生きているわけですからね。生きている状態がニュートラルなのか、死んでいる状態が真のニュートラルなのか……。まさかサッカーの試合を見て興奮している人はニュートラルじゃないよね……。

さあ、困りました。このジレンマを解決するには、もう一つ、物理の知恵を借りなければなりません。

高校の物理の授業で「相対性原理」というものを習いました。物体の速度というものはベクトルの数値で表せますが、たとえば同じ自転車に乗っている人の移動速度でも、地面に立って動かずにそれを見ている人、(横移動の)エスカレーターに乗って移動しながら見ている人、そして歩いて見ている人では、それぞれ観測できる速度が異なります。つまり観測者によって速度の値というものはいくらでも違ってくる、と言うわけです。

普通に考えたら「ニュートラル」であるのは「地面に立って動かずに見ている人」のような気がしますが、でも自転車に乗っている人から見れば、その「地面に立って動かずに見ている人」も自転車の進行方向と逆向きに動いているんです。つまり相対性原理の考え方によれば、観測という行為に絶対的な基準というものはない、と言うことになります。

私はこのことは物理だけでなく、倫理や論理にも当てはまると思います。つまり物事に対する評価や判断というものは、なにか基準を設定して初めて相対的に決まるものだ、ということです。基準がなければ、それがその基準点よりどっちにふれているかなんて決めようがありません。そして基準は設定するもの、作り出すものです。つまり元からそこに存在する真のニュートラルというものはなく、何が平常心かなんてほんとは決められないんじゃないかと私は考えたんです。

たとえば、人間は腹が空いたら何かを食べたいと思って食べ物を欲し、それを食べます。眠くなったら睡眠を欲し、寝床に行って寝ます。一見腹も減っていない、眠くもない、ただゆったりと過ごしているのが平常心に思えますが、でも人間の性質から言って栄養が足りなくなったら食べたいと思い、睡眠が足りなければ寝たいと思うのは自然なことです。人間として自然な行為、というものを基準として置いたなら、それはつまりニュートラルであり、平常心じゃないかって思うんです。

私は音楽が好きでいつでも聴いていますが、でも時々不思議に思います。何で音の集合体である音楽が、こんなに人の心を揺さぶるのか。音楽ってのは別になくても死にはしません。でも、例えばライブならいちいち舞台をセットするなんて言う面倒な作業をしてまで開催し、観客もそれにわざわざ足を運びます。音楽好きじゃない、音楽を聴いても何も感じない人から見たら、こいつらなんでこんなに熱狂してるんだ、気が狂ってるんじゃないか、って思うと思うんです。たぶんそれはこいつらは平常心じゃない、って事から来る感想でしょう。

でもなぜか人間は音楽が好きで、たしなみます。(それは他の生物には見られない性質でもありますね。)

人間は、食べ物を食べなかったり、眠らなかったりすると死んでしまいます。だからそれらを求めるのは人間としてニュートラルです。そしてそれだけでなく人間は音楽だとか、一見生命活動とは関係ないようなものまで求めます。音楽をなぜ脳が欲するのか、と言う科学的な話は、将来解明されるかもしれませんが、私は音楽を聴きたいと思ったりそれで熱狂したりするのもやはり人間の自然な欲求であり、ニュートラルなことなのではないかと思います。

話を元に戻しましょう。なぜ求めることが重要か。求めることは一見何か新しい状態を求めるニュートラルでない行為のような気がしますが、上記の考えを適用すれば、やはり求めることも人間として自然な行為なのでニュートラルになります。ある人、そしてそれらが集まったたくさんの人々が成長していく過程で、こんな将来があったらいいな、と心に思い描くのは、人間が与えられた、人間社会、ひいては種の発展のための必要な必然的性質だと思うのです。

求めることをやめれば、その個人も、社会も、人間という種もほどなくして滅びることになるでしょう。求めることは、存在し続けるためにも必要なことです。

食事が特別好きじゃない人でも食べないわけにはいかないように、例え望もうが望まなかろうが、求めること、求め続けることの他に選べる道なんて存在しません。そして、求めるからこそより良いよいものを生み出せるようにもなります。それはまだ見ぬ可能性を切り開くと言うことです。だから私は求めることは必然的なこと、重要なことだと考えているのです。

「――求めることを恐れてはならない、喜びに意味があるなら、それを求めることにも意味がある。」2009年1月12日のwhitecapsより。

■(2009.2.27)

posted by whitecaps at 13:53| Comment(1) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月06日

そのコード、異端か革命か(T)

この記事では、Linux初心者の私がLinuxを使っていて感じた疑問点と、その改善のためにLinuxはどういったシステムになっていくべきなのか、と言うことを書いています。ここで私が提案した機能は実際には既に装備されていて、ただ単に私がその設定方法に気づいていないだけのこともあるかもしれません。

はじめに

私は狂信的なアップル信者で、Mac OS Xを愛用していますが、オープンソースの理念にも心酔していまして、最近インテルMacにLinuxをインストールしました。まだお試し程度ではあるもののいろいろと使って試しています。Linuxも結構進歩していて、そこそこ使えるのですが、でもやっぱりまだ使いにくいなぁと言う感がぬぐえないのも事実です。無料で誰もが使え、世界中の人の手によって進歩するというその理念が私は好きなので、Linuxには世界ナンバーワンのOSになってほしいと私は思っているのですが、それにはまだ遠いようです。そこでLinuxがその将来を見据え、次のステップへ進むためにどういう事を心がけ、開発していけばいいのか、そのスローガンと実際の機能を考えてみました。

パーティションを簡単に区切れるようにする

Linuxを使うためにはまずもちろんインストールしないといけないのですが、これがなかなか敷居が高いものです。使っていないPCが手に入れば何も問題はないのですが、私などはなかなかまともに動くPCが手に入らずかなり困りました。

PCにLinuxを入れるにはパーティションを切る必要がありますが、パーティションを切ればハードディスク内のデータは全て消え去ってしまいます。なのでもとからデータが入っているPCにLinuxを入れようとすると、結構難しい問題になるのです。わたしはインテルMac上でMac OS X Leopardとデュアルブートにしたので、一応買ったばかりのMacであって作業データは特別無かったのですが、でもLeopardを再インストールするのもめんどくさいなあ、とは思っていました。

結局は本来MacにWindowsをインストールするためのソフトであるBootCampをつかって、Leopardを消さずにLinuxパーティションを作ることが出来ました。しかし、それでもLinuxインストール時に再度パーティションを設定しなければいけないので、ここでミスをしたらアウトです。やはりパーティションを区切ることはわたしのようなLinux初心者にとってはとても気の使う、危険を伴う作業だと思います。

私は今回使いませんでしたが、GParted(およびQtならQtParted)というソフトがあり、これを使うとデータを消去せずにパーティションを変更できるそうです(ただしデータ保全性には注意が必要)。ネット上の情報に書かれていたと思うのですが、操作方法によっては一部のLinuxディストリビューションではインストールディスク上からこれを利用することが可能だったように思います。

なので、私は思います。Linuxのインストーラはその内部にPartedソフトを内蔵し、通常のインストール手順上でもPC内に元から入っているデータを消さずにパーティションを区切りLinuxをインストールできるようにすべきです。こうすればパーティションを区切る、およびインストールをすると言うことの敷居が格段に低くなります。それはLinuxを利用したいと思っている一般ユーザーには朗報になるはずです。

また将来的にMac OS Xその他のOSには新技術としてZFSと言うファイルシステムが採用されると言います。詳しくは私もわからないので省略しますが、それはドライブだとかボリュームだとかパーティションというディスク管理上の概念を全く無用にする、非常に柔軟で革新的なファイルシステムだそうです。

もしZFSによってパーティションという考えがなくなるのなら、Linuxをインストールするのにもパーティションを区切る作業は必要なくなるのかもしれません。それってデュアルもトリプルもグアッドブートも簡単にできるようにする、素晴らしい技術じゃないでしょうか。それはLinuxがシェアを伸ばすために重要な技術の一つになるとおもいます。LinuxもZFSに対応することを眼中に入れておくべきです。

Xを堅牢にする

わたしはKDE4をデスクトップ環境としてGNOMEと共に入れていて、使っているのですが、いろいろな問題点の中の一つとしてとても困ることがあります。それはトラックパッドのタップの問題です。MacBookのトラックパッド自体はちゃんとLinuxでも使えるのですが、KDE4ではタップ機能を無効にする簡単な方法がないのです。KDE4はまだブラッシュアップされていなく、トラックパッドを使うとカーソルを移動させたいだけなのにすぐタップ機能が働いてクリックしてしまうのです。

ネット上で情報を探したところ、Xの設定をいじれば出来るよー、と書いていたサイトがいくつもあったので試してみました。ただ困ったのはその設定記述のサンプルがまちまちだったことです。サイトによってどう記述しろと言うのが違います。どれか一つぐらい動くだろー、と思って(ちゃんと設定ファイルをバックアップして)いじってみたところ、ログアウト後に見事にXがお亡くなりになりました。再起動してもエラーが出て、CUIログイン画面しか出ません。CUIの使い方がまだ良く理解できていたなかった私は結局Linux自体を再インストールして直しました。トホホ。

2回目も同じ事があったので、そのときはCUIログインして、viコマンドで設定ファイルを元に書き戻して何とか事なきを得ましたが、もし設定ファイルがどこにあるか覚えていなかったらlsコマンドでそれを見つけるのは気の遠くなるような作業だっただろうな、と思います。

なので、私は思います。まず第一に解釈不能またはシステムを起動不可にするような危険な記述が設定ファイルにあったなら、Xはそれを無視すべきです。ちょっと設定ファイルにおかしいところがあったからって起動できないって何ですか。たぶんXだってちゃんとバックアップファイルくらいとっているのでしょうから、現行の設定ファイルにおかしいところがあったらその自動バックアップファイルを利用するようにすべきです。奇妙な記述があるのなら、勝手に修正してくれてもいいくらいです。

もう一つ方法はあります。それは代替ミニXを作るって事です。つまり最低限のウィンドウシステム、デスクトップ、ファイルブラウザ、そしてパスワードを打ち込めば管理者権限でファイルを編集できるテキストエディタ。こういったものを揃えた最低限のフェイルセーフウィンドウシステムを用意するいうことです。これらがあれば不整合のある設定ファイルを書き戻すくらいのことは出来るでしょう。

ソフトウェアデータベースを守る

えーと、私は馬鹿をやらかしました。端末でapt-getを使いながら、パッケージマネージャを動かしてしまったんです。しかもパッケージマネージャがインストールやってる最中に端末を終了させてしまいました。結果どうなったかわかる人もいるかと思います。そのときはKDE4を新規にインストールしていたときだったのですが、一応インストール自体は終わってKDE4にログインしてみると、「Plasmaが壊れています」と表示されてデスクトップすら現れません、ログアウトどころかなにも出来ません。GNOMEはあるはずなのですが、良くは覚えていないんですがそれも使えなくなったみたいで、結局LinuxをインストールCDから再インストールしました。

私が馬鹿なんだと言えばそれまでですが、でも端末でapt-getしながらパッケージマネージャを動かすと言うことは、別にしようとして出来ないことではありませんし、警告も何も表示されません。ユーザーがそう言う操作を行いうる、と言う状況があるのなら、ソフトを設計するときに十分に配慮すべきです。

なんで私は思います。ソフトウェアデータベースにアクセスする(特に書き込み、かな?)、またはパッケージマネージャを起動すると言った場合は、システムがそれを検知して交通整理し、「複数のパッケージマネージャは同時に開けないから終了するよ」とか警告すべきなんじゃないかと言うことです。そうすれば私のような愚かな失敗をしてシステムをぶっ壊す奴はいなくなると思います。Linuxはソフトウェアデータベースが命なんですから、もっと堅固に作ってほしいものです。

ハードウェアに積極的に対応する

Linuxの素晴らしい点、かつ難しい点はどんなPCでも大抵は動く、と言うことです。Linuxは様々なプラットフォームに対応することが理念ですから、それも当然かもしれませんが、でも様々なハードウェアがある中でそれを実現するってなかなか大変なことなんじゃないかと思います。

LinuxはMacでも動きます。わたしはLinux初心者で情報がいろいろと必要ですし、あまり極度なマイノリティーになるわけにはいかなかったので新しく買ったインテルの方のMacにLinuxをインストールしましたが、本当はiBookの方にインストールしようと考えてたくらいですし、Linux自体もディストリビューションによってはPPC版を配布しているものもあります。学校の先生もPowerBookにFedoraをインストールしていました。

ただ例えインテルでもやっぱMacと言う時点でもうすでにマイノリティーなんですね。私が最初インストールしたバージョンのUbuntu Linuxは音が出なくて、トラックパッドも動作しませんでした。ネットで英文の情報をなんとか読解して設定ファイルを書き換えたら解決はしましたが、そう言う事って運が良くないと出来ないことだと思います。

まあ、先ほどの再インストールの時に新バージョンを入れたらこれらは何もせずに解決したのでコミュニティーに感謝ですが、やはり無線LANが動きません、動かそうとネット上に情報を探してもmadwifi?コンパイルしろだって……?と言うことで断念。でもなんかパッケージマネージャで適当にソフトを入れていたら、関連するソフトがあったらしくてKDE4上でMacBookの無線LANが利用可能になりました。その後GNOMEでもつながるように。うちはUSBハブがないので、有線使うと完全に回線を占有してしまうのですが、無線LANでつながることによってその問題も解決しました。でもいまでもペンタブレットはドライバ付きカーネルがどこで手にはいるかがわかりません……。これがないとInkscapeのカリグラフィーツールが実用的に使えないのですが。

で、思います。できれば無線LANモジュールはインストールディスクに最初から収録してほしいと。まあ、ドライバの種類はいっぱいありますから、容量の限られるインストールディスクに全てのドライバを入れるのは難しいかもしれませんが、それでも一回有線で繋いだときに即座に無線LANドライバをダウンロードできるようなナビゲーションがほしいんですよね。ドライバはプロプライエタリであることも多いですが、プロプライエタリなソフトウェアと共存していくこともLinuxの将来のためを考えれば必要なんではないかと思います。Mac独特のイジェクトキーはpommedという名前のソフトを入れたらちゃんと動作するようになってくれたのでこれはうれしいのですが、出来ればシステムがハードウェアを検出して、適切なユーティリティーやドライバを自動的にダウンロードしてインストールするといった気配りがあってもいいんじゃないかと思います。欲を言えばキーコンビネーションの設定なんかもMacならそれを検出してデフォルトでMac的設定にしてくれたらいいのになとも思うのです。

システムの安定性を確保する

私の環境だけかもしれませんが、Linuxを使っているといきなり固まって全く動作を受け付けなくなることがあります。GNOMEでもKDEでもそうですので、たぶんカーネルの問題なんだと思います。確かめたわけではないので正確なことは言えませんが、たとえばOOoを動かしたときやSongBirdで曲を鳴らしたままほうって置くとそうなることがあるので、これはメモリの消費の問題かな、と思います。もしかしたらスワップが限界まで増殖して、それでフリーズしているのかもしれません。

なので、もしそうならこれは一考しなければいけません。メモリ消費量やスワップ消費量が限界を超えて増加するようなそんなプロセスを野放しにしていていいのか。限界値をもうけてそれを越えたらリソースはOSの管理のためのものを優先するようなそう言った仕様にした方がいいのではないか。まあ、そういった設定項目は既にどっかにあって、私が気づいていないだけなのかもしれませんが……。

わたしが実際に動いているLinuxを生で初めて見たのはLive CDから起動させたKNOPPIXでした。そしてKDE4に長らく憧れを抱いていた私はSUSE LinuxのKDE4のライブCDを良く焼いて動かして楽しんでいました。うちの家パソは全く役に立たない代物なので、KDE4など動かすとすぐに固まってしまってしまうのですが、昔のKDE4では電源ボタンを押しても固まったままだったのが、新しいバージョンのものではちゃんとハードウェアに反応しておとなしく終了してくれるようになりました。いまUbuntu Linuxで音楽用にrtカーネルを使っていると終了プロセスが途中で止まることが良くあって困っているのですが、「ちゃんと終了する」と言う一見当たり前のことが非常に重要なことなんだとつくづく実感します。

#TO BE CONTINUED...SOME OTHER TIME
posted by whitecaps at 16:10| Comment(0) | TrackBack(0) | コンピューター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月03日

自作短編小説『ズラチナルーカ』

今回もズラチナルーカです。しつこいまでに蒸し返します。しかもタイトルまんまパクりですね。とは言っても短編小説です。

PDFミニアイコン自作短編小説『ズラチナルーカ』(PDFファイル、213KB)

最近寝ていると気分の悪い夢ばかり見るのですが、でも(人が聞いたらたぶん)悪夢なのにあまり気にならないんですよね。で、この短編小説もその夢の中の一つから生まれました。主人公がマンションから出たときの空の描写です。――ただ、最初からズラチナとその景色がリンクしていたわけではありません。

ズラチナに関する作品は前から何か作りたいなと思っていたのですが、今回その夢の映像《イメージ》が気になって、なんとか小説に昇華できないかなと思って繋げてみたんです。ちょっと設定がとっぴだけど、そこそこまとまってくれたと思います。
posted by whitecaps at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月01日

『試験終了』自作BLOOD+コミックビジュアル

えーっと今回もBLOOD+です。しつこいまでに蒸し返します。

『試験終了』自作BLOOD+コミックビジュアル

この前単位認定試験があったのですが、その二日目の試験用紙を解いていたら、どーぅしても絵が描きたくなって、二回にわたって試験用紙に落書きをしました。

最初のは音楽Uの試験で、「cantabile」の意味を答えろという問題があったので、のだめを思い出して、千秋を描こうとしました。でもどうしてもその前髪のサバけた感じがわからなかったので、ヤスに変更。回答欄のすぐ横に問題の得点表示をまたぐようにして描いて、そして最後に「none fagot.」(あれ?)と添えて完成。【問題の正解は「歌うように」】

二度目は家庭基礎の試験で、机と鉛筆と、消しゴムを描きました。

何でそんなの描こうと思ったのかっていうと、上に掲載した絵の構想が思いついたからです。世界史の解答を書き終わったあと、ずっと描こうかどうか迷っていたのですが、紙が微妙だし、描き上げる自信がなかったので描きませんでした。

で、後日になって家や学校で何日も時間をかけて描き上げて、まあ、三次元完全苦手の私でもなんとか描き上げました。漫画部の人が貸してくれた漫画指南書とスキャン時に指南してくれた先生に感謝です。にしてもGIMPのレベル補正使うと鉛筆汚れがきれいに消えるんだなー。

§ § §


ええっと、似てない?どっかおかしい?ここがおかしい?何で陰の輪郭線まで濃く描いてる?古い? そう言う人は藤咲監督のとこ行って本物を描いてもらってください。あの人今エリン作ってますから。

音楽の試験結果はどうなったかって……? ええ、満点でした。作曲家のあたりで間違ってるだろうって思ってましたけど、運が良かったですね。一安心です。

……自分がもっとうまく絵が描けるようになったら、描き直そう。
ラベル:BLOOD+
posted by whitecaps at 14:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 見たテレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする