まず、「アレルヤとハレルヤ」で書いた「バイナリとソースコードは対応関係にある」について。まあ、私はこれは別に間違いだとかはどうしても言えないのですが、それが「直感は論理で構築されている」すなわち「直感の正体は論理である」って言うイメージに結びつくと、それは違うのかな、とも今は思っています。例えば果物の甘さってものがあって、それが糖度計で測れて、まあ、それは甘さを示しているのは間違いないし、それで商品を評価するとか、そういうのはもちろん正しい方法なのですが、でもそれは人が感じてる甘みそのものなのかな、と言う感覚的なことを言うと、違うような気がすると。私は過去の記事で全ての感覚は+と-という一直線のバロメータの上にのせられると書いて、まあ、そういうとらえ方はもちろんできるし、重要なのですが、じゃあリンゴジュースとオレンジジュースの味をそのまま一直線のメーターの上にのせられるかって言うと、そうじゃないとも今は思っています。例えそれが物理的には六つの味覚のグラフの数値で出来てるとしたって、じゃあ食べ物の味がそのバランス「そのもの」なのかっていうと、そうじゃないとも思うのです。それそのものだけの感覚というか、そういうものがあるし、その時の気分や人による好みによって飲みたいものは違うし、結局どっちを飲むのかは決めなければいけませんが、だからといってじゃあいつだってそれが良いのかって言うと、それは違うのかなと考えます。音楽に関して「音楽の広がりには有限性がある」と書いて、結局これは否定できないし、音楽にジャンルや傾向があって「似てる曲」とかあるのは間違いないのですが、でも最近になってこの曲にしかない唯一の感覚って言うのも、そういう上でもやっぱりあるよなって言う気持ちがします。
「感覚って言うのがどういうものか知りたい」「じっくり解明したい」みたいな、まあ、私もそういうことで、今まで論理で感覚を解剖する、みたいなことをやってきたわけで、それって言うのは脳科学者が脳を解明することで人間の心を解明するとか、国語学者が文法を調べるというようなことと似ているとは思います。でも今の私がそういうやり方をすることで感覚というものがどういうものかわかるのかって言うと、それは今の私には当てはまらないとも思ってます。脳科学者の人とか、国語学者の人って言うのは、純粋に知的好奇心とか、それを知ることで何かに活用したいと思って調べているし、私も最初はそうだったのだと思いますが、今の私はただ理屈だけ追って、そういうものを忘れているような気がします。そういうやり方やとらえ方だと、最初に一番知りたかった「感覚ってどういうもの?」っていうそれそのものが、結局見えなくなってしまう気がするんですね。捉えるつもりが、解剖してバラしてしまうわけです。思えば、私も子供の頃は国語の文章の解読とか、文法の授業を受けていて、どこかモンモンとした気分を感じていたことを覚えています。それが重要なことも、それで構成されていることもわかるけど、でもそれで文章の心がわかるのか、って。
まあ、私も一応詩は作ってきて、そこそこなものは作れてるんじゃないかとは思っています。自分で『詩の心』なんて記事も書いているぐらいですからね。でもどっかで悩んだときに、「ここはこうだからこうだよな」とか「ここはこうだからこうあるべきだよな」って言う思考にはまってしまって、そういうときに一番詩が求めるべき、その、言葉の響きって言うか、感覚って言うものと外れる方向に進んでしまうことがあるな、と感じています。つまりどっか不自然だったりするんです。私は今まで詩は言葉遊びだけではだめだと、裏にちゃんと哲学とか、理念とか、あるべきだと考えてそれを実行していたんですけど、私が詩に入れるそういうものは、つまりメッセージとか、あるいは作品性みたいなものではなくて、ほんとに理論そのものって言うか、理屈になってしまっていて、その詩の良さを消しているのかな、と思います。本当に良い詩を作ろうと思うなら、たとえ文章としての定型とか、傾向とか、法則的なものが必要だとしても、それそのものだけを見ても結局は、実際にできあがる詩はどこか鋭さがないし、それは理論としても結局は間違えてることになるのでは、と思います。
時には言葉にして、図にして、理屈で考えることは必要です。でも直感でわかるなら、それ以上はないとも思います。結局はそれが芯を捉えた、正しいことを示しているんじゃないかと今では考えています。ソースコードがバイナリに変換されて動くというのはプログラミングにおいて事実ですが、そういう考え方でもやっぱり動いているのはバイナリだし、ソースコードをコンパイルするコンパイラも(コンパイラだってソースコードをコンパイルして作るものではありますが)バイナリだし、ソースコードを生み出すのも、やっぱバイナリだと思うんです。そしてコンピュータの精神世界(?)みたいなものがあったとして、一番最初にどっちがあったかって言ったとき、ソースコードはそれだけあっても動かないわけですから、バイナリがまず先にあったんじゃないかなと思います。だからそのバイナリがしっかりしていないと、そこから生まれるその他全部もしっかりしていないと。インタプリタのプログラムを動かすのも結局はバイナリなわけですし、実行環境が微妙なところでソースコードをいくら正確に書いても正しく動いてくれないだろうと考えます。私はソースコードがソフトウェアの精神であり、その発展の基軸となり、実際、開発においてもそれが編集できてこそプログラムが進化できるのは事実であるので、今までソースコード重視の方針でしたが、とりあえず今持っている印象としては、バイナリ至上主義、と言った感がします。
「求めるほかに道はない」というコラムを書きましたが、やはりこれも訂正しなければいけません。私は確かに何かを達成するためには、求めるしかない、それ以外にはないと今でも思っています。でも、あまりにそれにこだわりすぎて、じゃあ結局どうなるの、と言うことを忘れていたように思います。不要な焦りを生んでいたということです。そしてその焦りは情熱でもない。達成することだけに意味がある、結果だけ出せればいいということは言えないと思いますが、それを引き出すために求めることが必要と言っても、そればかり注視するのもやはりよくないと、そう思っています。小説でもエンディングだけのストーリーは本じゃないし、エンディングの来ないストーリーも成り立たないし、両方あって、そういうもんで、どちらが上に置かれるイメージなのかとかそういうもんじゃないと思うのです。(昔読んだ「はてしない物語」(Never Ending Story)も、一応その本そのものとしてのストーリーは完結しますし。)目的をそれとなく見据えつつ、そこまでの歩いていく道のりを踏みしめて、周りの景色も見回しながら、時には横道にそれたりしながら歩いていくのが良いのだろうなと今では思っています。
「未来は変えられない」についても反駁を。まず第一に物理雑誌を読んでいて知ったのですが、この私が書いた考え方は物理学では「ラプラスの魔物」と呼ばれるそうです。つまり世界の全てを知っている魔物がいて、それはこの世界がどうなるか全て予測できると。しかし量子学の思考法においてはこれが「成り立たない」と言うことでもあるそうで、私はまだしっかりと調べていないのでわからないのですが、物理学という分野としても必ずしも「未来は変えられない」となっているわけではないようです。私は自分の経験から「歴史は変えられない」つまり「道は一つ」、「未来は変えられない」と考えたわけで、量子学がどうとか言ってもこれは変わらないのですが、でもわたしも「シュレーディンガーの猫」の様な考えもやはり的を射た考えで、つまり「全て物理法則に従って一つの道を進む」というのも「全ての事象は確率でとらえられる」というのも、物理学がその二つを内包しているように、反対のようでいて、実は共存していて、どっちも正しい、そういうように今では思います。「シュレーディンガーの猫」はあくまでも「確率」であり定量的なものですが、「不確実性」というものも存在しないのか、それらと共に成り立たないのかと言ったら、説明しようはありませんが、そうではないような気が今の私はしています。分野は変わりますが、プログラミングにおいても、オブジェクトは渡されていない情報については認識できませんし、判断できません。CPUで動くのがある一つの処理であると言っても、そういうことを言っても実際問題オブジェクト自身がそれをそのままとらえるとかは、出来ないと思います。
私はあの時「未来が決まっていると思うことで、余計な心配をしないですむ」みたいなことを書きました。でも今の私としては、時には注意したり、気を払ったり、集中したりすることも重要だと思っています。私が『求めるほかに道はない』で書いた「求めること」というのは単に「幸せを求める」だけでなく、「苦しみから逃れるために求める」と言うことも重要な要素で、その両方から成り立つ考えなのですが、そのためには「恐怖」も必要だと、「恐れることを恐れない」みたいな考えも出来るのかな、と今では思っています。それは循環論法(パラドクス)で「結局は恐れたくないってことじゃん」とも言えるのですが、でも「恐れることを恐れない」と言う言葉の意味自体がそのパラドクスによって消えるのかというと、そういうわけでもないと感じます。
スポットライト理論では、「たくさんの見方があるのは論理であって、倫理ではその人ごとに一つに決まっている」と書いて、これはつまり人間は最終的には何らかの判断を下して行動しているから、と言うことなのですが、例えばじゃあ、その根幹部分を論理で、言葉でハッキリと見つけないとだめかというとそうではなくて、先にも書いたとおり直感の方がよくそれを知ってたりすると、今では思います。たとえそういう根幹部分を理論で知ったとしても、その価値というか意味そのものは知ることが出来ない、とも思うのです。結局は崩して、無意味なものにしてしまうのではないのだろうかと。そして根幹がわかっていても、それを実際のレベルまで引き上げていく過程で一体のあるつながりのあるものでなければ、結局は「心を知って、心を知らず」になるだろうと思います。底が正しくて、その部分と線で繋がっていても、必ずしもそれでまっすぐに発展しているわけではない、全体で見ればあらぬ方向に行く、と言うことがありえると思うのです。
なんというか、自分の考えてきたことを否定するのはまったく情けないのですが、このままほうっておくわけにも行かないので、とりあえずここまで書いてみました。これらは私が今、心情的に弱気になっていることの現れかもしれませんし、根拠も感情論であり、全てのことにたいして反駁出来たわけではありませんが、今私が感じていることを、ここに記しておきたいと思います。