2009年05月28日

lime

最近体調不良その他で、詩は一個載せたものの、全体のブログの更新を休んでいました。先日『意志ベクトル論.pdf』という記事を載せて、まあ、それは何年も前から私が頭の中でずっと考えてきたことの流れの一つなんですが、でも最近になって、こういう理屈になんの意味があるのかぁと思うようにもなってきて、なのでこれからしばらくは哲学について書くのはやめようかな、と思っています。でも自分が今まで書いてきたことの後始末みたいなものは、ちゃんとしなきゃいけないかな、とも思うので、結局は同じ理屈をこねることにはなってしまいますが、今までの理論の「中和」みたいなものをしておきたいと思います。

まず、「アレルヤとハレルヤ」で書いた「バイナリとソースコードは対応関係にある」について。まあ、私はこれは別に間違いだとかはどうしても言えないのですが、それが「直感は論理で構築されている」すなわち「直感の正体は論理である」って言うイメージに結びつくと、それは違うのかな、とも今は思っています。例えば果物の甘さってものがあって、それが糖度計で測れて、まあ、それは甘さを示しているのは間違いないし、それで商品を評価するとか、そういうのはもちろん正しい方法なのですが、でもそれは人が感じてる甘みそのものなのかな、と言う感覚的なことを言うと、違うような気がすると。私は過去の記事で全ての感覚は+と-という一直線のバロメータの上にのせられると書いて、まあ、そういうとらえ方はもちろんできるし、重要なのですが、じゃあリンゴジュースとオレンジジュースの味をそのまま一直線のメーターの上にのせられるかって言うと、そうじゃないとも今は思っています。例えそれが物理的には六つの味覚のグラフの数値で出来てるとしたって、じゃあ食べ物の味がそのバランス「そのもの」なのかっていうと、そうじゃないとも思うのです。それそのものだけの感覚というか、そういうものがあるし、その時の気分や人による好みによって飲みたいものは違うし、結局どっちを飲むのかは決めなければいけませんが、だからといってじゃあいつだってそれが良いのかって言うと、それは違うのかなと考えます。音楽に関して「音楽の広がりには有限性がある」と書いて、結局これは否定できないし、音楽にジャンルや傾向があって「似てる曲」とかあるのは間違いないのですが、でも最近になってこの曲にしかない唯一の感覚って言うのも、そういう上でもやっぱりあるよなって言う気持ちがします。

「感覚って言うのがどういうものか知りたい」「じっくり解明したい」みたいな、まあ、私もそういうことで、今まで論理で感覚を解剖する、みたいなことをやってきたわけで、それって言うのは脳科学者が脳を解明することで人間の心を解明するとか、国語学者が文法を調べるというようなことと似ているとは思います。でも今の私がそういうやり方をすることで感覚というものがどういうものかわかるのかって言うと、それは今の私には当てはまらないとも思ってます。脳科学者の人とか、国語学者の人って言うのは、純粋に知的好奇心とか、それを知ることで何かに活用したいと思って調べているし、私も最初はそうだったのだと思いますが、今の私はただ理屈だけ追って、そういうものを忘れているような気がします。そういうやり方やとらえ方だと、最初に一番知りたかった「感覚ってどういうもの?」っていうそれそのものが、結局見えなくなってしまう気がするんですね。捉えるつもりが、解剖してバラしてしまうわけです。思えば、私も子供の頃は国語の文章の解読とか、文法の授業を受けていて、どこかモンモンとした気分を感じていたことを覚えています。それが重要なことも、それで構成されていることもわかるけど、でもそれで文章の心がわかるのか、って。

まあ、私も一応詩は作ってきて、そこそこなものは作れてるんじゃないかとは思っています。自分で『詩の心』なんて記事も書いているぐらいですからね。でもどっかで悩んだときに、「ここはこうだからこうだよな」とか「ここはこうだからこうあるべきだよな」って言う思考にはまってしまって、そういうときに一番詩が求めるべき、その、言葉の響きって言うか、感覚って言うものと外れる方向に進んでしまうことがあるな、と感じています。つまりどっか不自然だったりするんです。私は今まで詩は言葉遊びだけではだめだと、裏にちゃんと哲学とか、理念とか、あるべきだと考えてそれを実行していたんですけど、私が詩に入れるそういうものは、つまりメッセージとか、あるいは作品性みたいなものではなくて、ほんとに理論そのものって言うか、理屈になってしまっていて、その詩の良さを消しているのかな、と思います。本当に良い詩を作ろうと思うなら、たとえ文章としての定型とか、傾向とか、法則的なものが必要だとしても、それそのものだけを見ても結局は、実際にできあがる詩はどこか鋭さがないし、それは理論としても結局は間違えてることになるのでは、と思います。

時には言葉にして、図にして、理屈で考えることは必要です。でも直感でわかるなら、それ以上はないとも思います。結局はそれが芯を捉えた、正しいことを示しているんじゃないかと今では考えています。ソースコードがバイナリに変換されて動くというのはプログラミングにおいて事実ですが、そういう考え方でもやっぱり動いているのはバイナリだし、ソースコードをコンパイルするコンパイラも(コンパイラだってソースコードをコンパイルして作るものではありますが)バイナリだし、ソースコードを生み出すのも、やっぱバイナリだと思うんです。そしてコンピュータの精神世界(?)みたいなものがあったとして、一番最初にどっちがあったかって言ったとき、ソースコードはそれだけあっても動かないわけですから、バイナリがまず先にあったんじゃないかなと思います。だからそのバイナリがしっかりしていないと、そこから生まれるその他全部もしっかりしていないと。インタプリタのプログラムを動かすのも結局はバイナリなわけですし、実行環境が微妙なところでソースコードをいくら正確に書いても正しく動いてくれないだろうと考えます。私はソースコードがソフトウェアの精神であり、その発展の基軸となり、実際、開発においてもそれが編集できてこそプログラムが進化できるのは事実であるので、今までソースコード重視の方針でしたが、とりあえず今持っている印象としては、バイナリ至上主義、と言った感がします。

「求めるほかに道はない」というコラムを書きましたが、やはりこれも訂正しなければいけません。私は確かに何かを達成するためには、求めるしかない、それ以外にはないと今でも思っています。でも、あまりにそれにこだわりすぎて、じゃあ結局どうなるの、と言うことを忘れていたように思います。不要な焦りを生んでいたということです。そしてその焦りは情熱でもない。達成することだけに意味がある、結果だけ出せればいいということは言えないと思いますが、それを引き出すために求めることが必要と言っても、そればかり注視するのもやはりよくないと、そう思っています。小説でもエンディングだけのストーリーは本じゃないし、エンディングの来ないストーリーも成り立たないし、両方あって、そういうもんで、どちらが上に置かれるイメージなのかとかそういうもんじゃないと思うのです。(昔読んだ「はてしない物語」(Never Ending Story)も、一応その本そのものとしてのストーリーは完結しますし。)目的をそれとなく見据えつつ、そこまでの歩いていく道のりを踏みしめて、周りの景色も見回しながら、時には横道にそれたりしながら歩いていくのが良いのだろうなと今では思っています。

「未来は変えられない」についても反駁を。まず第一に物理雑誌を読んでいて知ったのですが、この私が書いた考え方は物理学では「ラプラスの魔物」と呼ばれるそうです。つまり世界の全てを知っている魔物がいて、それはこの世界がどうなるか全て予測できると。しかし量子学の思考法においてはこれが「成り立たない」と言うことでもあるそうで、私はまだしっかりと調べていないのでわからないのですが、物理学という分野としても必ずしも「未来は変えられない」となっているわけではないようです。私は自分の経験から「歴史は変えられない」つまり「道は一つ」、「未来は変えられない」と考えたわけで、量子学がどうとか言ってもこれは変わらないのですが、でもわたしも「シュレーディンガーの猫」の様な考えもやはり的を射た考えで、つまり「全て物理法則に従って一つの道を進む」というのも「全ての事象は確率でとらえられる」というのも、物理学がその二つを内包しているように、反対のようでいて、実は共存していて、どっちも正しい、そういうように今では思います。「シュレーディンガーの猫」はあくまでも「確率」であり定量的なものですが、「不確実性」というものも存在しないのか、それらと共に成り立たないのかと言ったら、説明しようはありませんが、そうではないような気が今の私はしています。分野は変わりますが、プログラミングにおいても、オブジェクトは渡されていない情報については認識できませんし、判断できません。CPUで動くのがある一つの処理であると言っても、そういうことを言っても実際問題オブジェクト自身がそれをそのままとらえるとかは、出来ないと思います。

私はあの時「未来が決まっていると思うことで、余計な心配をしないですむ」みたいなことを書きました。でも今の私としては、時には注意したり、気を払ったり、集中したりすることも重要だと思っています。私が『求めるほかに道はない』で書いた「求めること」というのは単に「幸せを求める」だけでなく、「苦しみから逃れるために求める」と言うことも重要な要素で、その両方から成り立つ考えなのですが、そのためには「恐怖」も必要だと、「恐れることを恐れない」みたいな考えも出来るのかな、と今では思っています。それは循環論法(パラドクス)で「結局は恐れたくないってことじゃん」とも言えるのですが、でも「恐れることを恐れない」と言う言葉の意味自体がそのパラドクスによって消えるのかというと、そういうわけでもないと感じます。

スポットライト理論では、「たくさんの見方があるのは論理であって、倫理ではその人ごとに一つに決まっている」と書いて、これはつまり人間は最終的には何らかの判断を下して行動しているから、と言うことなのですが、例えばじゃあ、その根幹部分を論理で、言葉でハッキリと見つけないとだめかというとそうではなくて、先にも書いたとおり直感の方がよくそれを知ってたりすると、今では思います。たとえそういう根幹部分を理論で知ったとしても、その価値というか意味そのものは知ることが出来ない、とも思うのです。結局は崩して、無意味なものにしてしまうのではないのだろうかと。そして根幹がわかっていても、それを実際のレベルまで引き上げていく過程で一体のあるつながりのあるものでなければ、結局は「心を知って、心を知らず」になるだろうと思います。底が正しくて、その部分と線で繋がっていても、必ずしもそれでまっすぐに発展しているわけではない、全体で見ればあらぬ方向に行く、と言うことがありえると思うのです。



なんというか、自分の考えてきたことを否定するのはまったく情けないのですが、このままほうっておくわけにも行かないので、とりあえずここまで書いてみました。これらは私が今、心情的に弱気になっていることの現れかもしれませんし、根拠も感情論であり、全てのことにたいして反駁出来たわけではありませんが、今私が感じていることを、ここに記しておきたいと思います。


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2009年05月18日

詩『イチゴミルク』

もう何年も前のこと

草青い丘の売店で、イチゴミルクのアイスキャンディーを買ったあの時の僕たちは

明るいベンチに腰を下ろして
それをなめていた

風鈴の音のする簾の先で
日の光を受ける君の麦わら帽子
時々しばたたく君の瞳
山過ぎる風は初夏の香り
足の下を冷たく通って行く

足を揺らしながら
君がイチゴミルクをなめる
そして君ははっとしたような顔をする

何か言葉を言ってみようとするけど
どんな言葉でも嘘みたいで

あれから僕らはどうしただろう
今僕らはどうしただろう

ああ
イチゴミルクをなめる
君と僕の舌にはそれぞれ別々の味

No No Sadness
Bye Bye Loneliness
According as my Memory
Towards each Future

足を揺らして
イチゴミルクをなめる
君のほおが不意にほころぶ

ああ

イチゴミルクをなめる
君と僕の舌にはそれぞれ別々の味

■(2009.5.18)

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2009年05月07日

詩『雨上がり』

白い空から落ちる雨の中を歩きながら
明るいアスファルトの上を辿っていく
ぼんやりと見える道路と、並木道
ただ足音と足跡を確かめながら
傘の影に隠れる空を見上げる

空はただ白いだけで
僕に何も答えない
そして、何かをささやくように
ゆらゆらと揺れては
泪くような雨粒を上からこぼしてくる

(今日は、晴れるって言ってたけど、)

目の前の雨傘をよけると
バッタが一匹、葉っぱの上で雨宿り

その遠いような目の前を見つめて
僕は足元を止めると
誰ともなく、心の奥に呼び掛ける――

もうずっとずっと前から、
誰かの亡骸を追っているだけの僕
そんな僕は
ちゃんと君を愛せていますか
ありのままの君を愛せていますか
ちゃんと、君に向き合えていますか

君のちっぽけな悩みも
僕のちっぽけな悩みも
(こんなこと言うと怒る?)
ほんとはとても重いんだって
大事なものなんだって
ほんと、今さらになって
気づいてたりするんだけど

ためらいと、恐れと向き合って
そうでなければ駆け出せない
走りくる車をよけるのは
ほんとにそれが来るのを
目に見えているからだけ?

今気づいたんだ
あの歌は悲しみの歌なんかじゃない
希望に満ちた歌なんだって
力強く信じるままに
間違いだらけの毎日と
ただこの痛みを歌っていく

――傘の奥の空で、雨の切れ間が光り出す

心が雨霧に溶けていく
今見える、雨粒の落ちるときの形を
君の傘にまとう 微かな白い輪郭を
僕の手のひらにも、
降り残された雨粒が落ちてくるのがわかる

そうさ、たとえなんだっていい
僕は一つの羅針なんだ
余弦の縁を辿って
どんなに暗がりに隠れても
どんなに人混みに紛れても
与えられた力を握りしめ
己の信じるままに生きていく

そしてただ、今は前を歩く君に振り向いてほしくて――

ずっとずっと降り続いていた
あの雨は止んだ
雨上がりの瑞々しい景色の中
また目の前の道を歩きだそう

■(2009.4.15)

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2009年05月01日

能動的な情報取得か、それともナビゲーション的な情報取得か

オープンソースって、オープンソースじゃない、と感じることがよくあります。えーっと、どういう意味かって言うと、まあ、間違いなくオープンソースならソースコードはオープンなわけですけど、それを理解するための知識は、オープンじゃないってことです。

たしかにWikiとかはありますし、コミュニティーの掲示板とかはあります。誰かが質問してそれに返答した記録がコミュニティーの掲示板に残っていて、それを参照してたとえばなんとかのソフトをインストールする方法とか、問題の解決法を探ることはあります。でも、よくわかんないことがあるんですよね。

Linux使っているひとにはCUI操作なんて当たり前ですから、これこれのコマンドを打つと解決します、なんて教示(?)があることがよくあります。まあ、今の私ならコマンドの打ち方はある程度わかっていますから、別にいいのかもしれませんが、昔の私だったら、そしてWindowsとかMacしか使ったことなくて、CUIが何なのかわからない、って人に「コマンドを打て」って言っても、「どこに打つの?、何で文字?、ウィンドウは?ボタンは?」ってことになると思うんですよね。

まあ、ユーザーが端末という言葉の意味を知っていればそれで何の問題もないのですが、もし初心者向けの本とかを書くならば、基礎的なことに限ってでもいいから、コマンドをどう打つのかとかCUIとは何なのかとか、そういったことにも触れておかなければいけないと思うんですよね。いや、まあ、触れてる本もありますが、触れてない本もあるわけで。

Linux自体やそのアプリケーションのインストールとかをしようと思ったら、事前の情報収集は欠かせない、とよく言われます。インストールするのにも、個別のソフトによっていろいろと注意点があって、ちゃんと把握しておかないとインストールに失敗して結果的に地獄を見る、なんてこともあります。Linuxにおいて、そういったことを理解しておくことは各ユーザーに必要な自己責任なんです。

――でも、私はそれはやさしくないと思います、ユーザーにとって。実際のインストーラーも「大切な情報」とか言う画面が表示されるウィザード画面があって、そうなっているわけですが、私としては「ナビゲーション」って非常に重要なものだと思うんです。何か用事を行うのにソフトが必要だって時に、Webブラウザを開いてGoogleで検索して探すって言うのは定法ですが、それってスマートじゃないなあと私はよく思います。何かしらのソフトを探すためのRIAアプリケーションがあって、そこの検索窓に欲しいソフトの機能を打ち込むと、ソフトがリストアップされる。そしてそこから項目を選ぶと、パッケージマネージャに繋いでソフトのインストールまでナビゲーションしてくれる、と言うことがあってもいいんじゃないかと思うんです。

確かに現在のパッケージマネージャにもそういうソフトデータベースのフィルタ機能はありますが、わたしはWebから検索エンジン的に情報を集めるような形態のアプリケーションにも需要があると思います。また話を戻せば、インストール事項についてもHTMLリンクが貼ってあってそこを読んでくれとしているインストーラーがありますが、やはりいちいちWebブラウザを開いてと言うのはスムーズではないでしょう。インストールに必要な情報は、全てインストーラーないしその関連画面上で表示されるべきです。(そしてそれはそれだけインストールに関する懸念事項が少なくあるべきだと言うことも示します。)

これらの話はとても哲学的な話にもなります。それは情報とは自分から探しに行くものか、それとも適宜与えられるべきものなのか、と言う問題です。呼び方をつけるとすれば「能動的な情報取得か、それともナビゲーション的な情報取得か」みたいなところでしょう。おそらくLinuxの前提は前者です。そしてこの社会というものもその基底は前者だろうと私は思います。どんな場合だって、自分から情報を得ること、得ようとすることの方が賢いに決まっていますし、それは人間である限り当然のように求められる大原則です。新聞を取っていたとしても読もうとしなければその情報は頭の中には入ってこないでしょうし、社会福祉制度なども自分からアンテナを立てておいて情報を掴まないと、有益な制度を利用できないこともあるのではないかとおもいます。

でも、アップル・ヒューマン・インタフェース・ガイドラインを読んだことがある私は、その文章に「ユーザーが操作に必要な情報は適宜与えられるべき」といった理念がどこかしこに含まれていたように感じました。(と言うかどっかに書いてあったかもしれません。) その理念から考えるならば、ユーザー(あるいは国民?)にとって本当にやさしいのは、必要な情報は適宜与えられるという後者の方なのだと私は思うのです。前者の重要性はもちろんのことですが、後者だって重要だとそう思います。後者の考えがなかったら、おそらく子供を学校に行かせるような義務教育のような制度が作られることはないでしょう。勉強の意味がわからないまま勉強している子供なんてたくさんいます。でも必要だからそのナビゲーション、ないし内容も含めた実行役として(たとえば)学校は存在するのです。

オープンソースはコードは公開されていますが、実際それを読むのにはかなりな知識がいります。その知識をスムーズに理解できるようなナビゲーションを用意しなければ、それはコードを公開して読み方を隠す、本当のオープンソースとは言えないと私は思うのです。初心者層の知識を引き上げることはオープンソースに必要な責務であり、コンピュータ技術の進歩にとっても大きな意味を持つことだろうと私は考えます。

なんか、話が変な方へ行きましたが、ようは私がLinuxのインストールによく失敗してるって話ですね。

■(2009.4.28)

posted by whitecaps at 14:44| Comment(0) | TrackBack(2) | コンピューター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする