2009年04月17日

アレルヤとハレルヤ

昔書いた脳コマンド学について再び。

ときどきあると思うんですが、自分でも気づかないうちに何かをうまく操作してた、ってことありませんか? たとえばそれはテレビのリモコンだったり、腕時計のボタンだったり、パソコンの画面操作だったり、電灯の電気だったり、いろいろです。今これらは全て電気製品の例を挙げましたが、別に自転車に乗ることだって、鉛筆を使うことだって、コンロの火を調節することだって、そして歩くという動作だってそう言えることがあるとおもいます。私なんかはよくよく考えてみると、なんか体が勝手に動いているような気さえするな、とまで思うのですが、でも時々ミスをしたりなんかする時をのぞけば、それらは意思に沿ってうまく働いてくれます。

ガンダム00に関するWikipediaの記事に、「アレルヤは『思考』を、ハレルヤは『反射』を司り、2つの人格が共通の目的を持った時、真の超兵の力を発揮する」という記述があるのですが、これを読んで思いました。人間がいろいろと頭の中で理屈を巡らせて考えることと、先述の「何かをうまく操作してた」ということは、「思考と反射」の関係にあるのではないだろうか、と。

先輩へのメールにも書いたのですが、ギタリストってギターを弾くときほとんどギターを見ないんですね。コードを押さえるのにはフレットをきちんとそれぞれのコードの指遣いで押さえなければいけないのですが、大抵はフレットの所どころかギターの胴体さえ見ていません。それで間違えないどころか、同時に歌まで歌う人もいるわけです。全くの驚異ですが、でもたぶんこれにも「反射」というものが関わってくるように思います。

どんな人でも最初からコードの押さえ方を知っているわけではないでしょう。やはりギターを始めた頃はコード表とか見ながら押さえるもんだと思います。でも練習していくうちにだんだん無意識のうちに押さえられるようになって、最終的には見なくても間違えずに弾けるようになる。やっぱりこれって最初は意識上の「思考」だったものが無意識上の「反射」になっていってるのではないのかな、と思うのです。パソコンのキーボートのブラインドタッチとかもそうでしょう。最初は一個一個人差し指とかで押さえていたものが、慣れるとほとんど見なくても打てるようになります。

私は昔このブログで、作曲について(と言うか芸術全体がそうだと思うのですが)「論理と直感」という話を書きました。それはつまり何か芸術作品を作るには「センスを磨いて理論を学ぶ」みたいなことが肝要だ、と言う話なのですが、たぶんこれって、「思考と反射」と同じなんですね。直感って一種反射なわけです。

そして脳コマンド学的見地から言うと、「思考と反射」は「ソースコードとバイナリ」の関係とも言えます。ソースコードは可読で理解できますし、編集可能ですが、そのままだと実行スピードは遅いです。一方、バイナリはディスアセンブルしない限り理解不能で、そのままではプログラム編集は不可だが、実行速度や反応速度は速い。

私は『詩の心(後)』でも述べたとおり、理解できない理論は使いたくない方です。その理論にどのような不整合が潜んでいるかわからないし、それを無批判に使うことが、真実探求の心を阻害するようにさえ思うからです。オープンソース主義者がプロプライエタリなソフトウェアを使うことを拒むのも、それがどのようなプログラムとして出来ているか公開されていない、と言う「視界の不明瞭さ」を感じるところから来るのだと思います。

でも、先ほど書いたとおり、ソースコードがあって、コンパイルしてバイナリになって、それではじめて動く。どっちが重要とかじゃなく、きっとソースコードとバイナリって言うのは、切っても切れない関係なんだと思います。

■(2009.4.10)



ラベル:ガンダム00
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2009年04月14日

トキカケタイムライン

昨日私は本屋で柄にもなく『Newton』を読みふけりました。Newtonは豊富な図説で知られる科学雑誌です。私は最近芸術ばかりで科学どころか本すら読まないのですが、エリンの好奇心にあてられて、立ち読みであることも忘れて一時間ほどか読みふけりました。そういえば私は昔、時々図書館の雑誌コーナーでそのNewtonを読みふけっていたものです。まあ、昔は私もそんな人間だったんですね。

で、全部読むわけにもいかないので、「時間とはなにか」と言うテーマをあつかったセクションに限定して読みました。いろいろと考えさせられることが書いてあったのですが、私はその中の記述の一つ、相対性理論による「速く進む物体の時間は遅れる」と言う話をあらためて提示されることとなりました。そしてそのとき私は、そういえばそのことについて昔考えたことがあったよな、と言うことを思い出したんです。

たとえばの話ですが、学校で私が友達と話しているとします。そのとき私はその友達が目の前にいると感じているでしょう。しかし友達の方はどうでしょうか。もし友達がせかせかした人でいつも私より速く移動しているなら、その人の時間は微妙に遅れているかもしれません。その差を大げさにとらえれば、私が友達と話している間、その友達はすでにチャイムの音を聞いて次の授業に向かうべく廊下に飛び出しているかもしれないのです。

そしていつものような私に戻ってトキカケのことにも触れてみましょう。トキカケではタイムリープというものが出てきます。ようは時間を飛び越える、ドラえもんのタイムマシンと似たようなものです。そしてここで私が問題にしたいのはこのタイムリープが生み出す、個々人における時間差の問題です。普通に考えたなら、真琴が過去にタイムリープしてからそこにいる友達の友梨と話したなら、タイムリープ後の二人もやはり同時に話しているように考えられます。でも個々人が感じるタイムラインを絶対的なものとおいて考えたならどうでしょう。たとえ真琴が過去にタイムリープすると言っても、それは真琴がこれから感じる周りの環境の時間が過去に戻るだけです。真琴の感じるその時間軸自体はやはりそのまま進んでいます。そして真琴が過去の環境時間に戻っている間、真琴がタイムリープする前からつづく友梨の時間は、絶対時間、環境時間ともにそのまま未来へ進んでいきます。そうすると、やはりそこに同時に感じている(環境)時間のずれが生じるのです。

カムバックしてみると、これはとても科学的な話にもなり得ります。それはこのような思考をすると、たとえ相対性理論において時間がずれると言っても、やはりそれぞれが「今」感じているそれぞれの環境時間の存在があり、そしてそれは環境時間に左右されない「今」という絶対時間が存在する、と言うことも示しているからです。

この絶対時間は単に物理的な概念と言うよりも、感覚による時間と言えます。ただし時間がゆっくり進むように感じる、と言った要素には左右されるものではないでしょう。ゆっくり進むように感じたとしても、そのことを認識するための感覚に置ける絶対的な尺度はやはりあるからです。つまりこの感覚に置ける絶対時間は、人間にとっては何よりも等時性がある時間単位である、と言えるのではないかと思います。

■(2009.4.10)

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2009年04月10日

て言うか大橋さんですよ。

私はずっと前、tumblrの方に『芸術の模式図』と題した図のようなものを載せました。意味不明だな、と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はその図が示している「芸術がどういうものであると捉えられるのか」ということについて私の考えを書いてみたいと思います。

まず、図を見てください。

芸術の模式図

では、この図を説明していきましょう。この図のうち箱のような長方形は、人間(あるいは会社のような組織のまとまり)を示しています。そして矢印は、情報の流れを示します。情報は上側から複数(この図では二本)入ってきて、人間の思考の中で混ざり合い、交差します、そしてそれらの情報は人間の関与によってその位置を変え再び外界へ出て行きます。

ここでまずわかることは、「入力なくして出力なし」ということです。例えば、パソコンにおいてプログラムのメソッドやコマンドというものは、何らかの入力(それはコマンドの呼び出し信号そのものだったり、あるいはそれの引数)がなければ動作しませんし、返り値を返すことももちろんありません。これは人間においても同様だと私は考えます。人間でも何らかの情報が入ってくる、またはそれをとどめた記憶のようなものがなければ、やはりそれらを外に出力することは出来ないということです。

第二にわかることは、同じ命題でも人が導き出す結論はそれぞれ異なるということです。実際にはどんなに近い環境でも各人が受け取る情報はやはり違うものですし、また、思考の回路が違えばやはり情報が同じでもその処理結果は変わってきます。これは同じ課題に対しても人によって解答が異なることを示しています。これらの処理回路は、最初どのような基礎回路があったか、それにどのような情報が入力されていったか、によって変化していくことでしょう。

そして注目すべきは中心の交差部分で新たに生まれている矢印です。やはりこれも外部に出力されています。実を言えばこの矢印こそが芸術における作品にあたるものだと私は考えています。この矢印は中心で他の矢印がクロスしたときに生まれます。他の矢印も出力されることは変わりませんが、新たに生まれているのはこの中心の矢印です。この矢印は、中で交差している他の複数の入力情報から生み出されます。しかしその情報自体は独自性があり、そこに新鮮さという要素が生み出されることになります。

二次著作というものをこの図に当てはめると、それはこれら三つの矢印全てが作品の中に含まれていると言うことになるでしょう。そして二次著作でない作品の矢印というのは、――たしかに他の矢印から生まれてはいるものの――新しい矢印であるオリジナルな中心の矢印のみ含んだ作品である、と言えます。

あるミュージシャンに「(アイデアが)溢れ出て来るっていうよりは、削り取って(作って)る感じなんですよ」という言葉がありましたが、それは人間は思考の中に入ってきた記憶や情報、感覚などのストックを元に、そこから作品を作っていくから、「消費していく」、削り取っているように感じるのだと私は思います。そしてストックを蓄え直すためには、やはり新しい環境を経験をして、新しい情報を入力していかないといけないと言うことなのではないのだろうかな、と。

私もこれからそうでないといけないのだと思っています。

■(2009.4.9)

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2009年03月08日

求めるほかに道はない

お知らせ:『そのコード、異端か革命か』は文章全体の構想が大きいので、書き上がっている一部の文章だけ前回の記事として先行して載せました。いずれ続きも書くつもりですが、それらが仕上がるまで掲載は間が開きます。

いきなりな質問ですが、「求める事」って、果たして正しいことなのでしょうか? 私は何かにつまずいたとき、どうしてもそんな疑問が思い浮かぶことがあります。

「求めると苦しくなる」という言葉を聞いたことがあります。たとえば「なにかをもっとうまくなりたい」「もっと上に上がりたい」「もっと楽な暮らしをしたい」と思ったとき、それは求めていると言えますが、でも、それらは叶えられることばかりではありません。無い物ねだりをしてもただむなしいだけのように、叶えられない望みがあると、心は苦しくなります。そして無いものをねだっても叶いようがないのですから、苦しくならないように、求めることをやめる、そうした方が心中は穏やかに暮らせるよ、と言う意味をこの言葉は持っているということのようです。

でも、私は今、常に求め続けています。さっきの話は本当のことだと思いますが、でも私は求めます。一体なにを求めるのか?って聞かれても答えられないのですが、でも、何かを求めていると思います。そして私は求めることは重要であると思っています。求めない生き方なんてあり得ない――。そんな生き方は自分にはできない。そこで、なぜ私がそう思うようになったか、と言うことを今回は書いてみたいと思います。

すんごい急な話でなんなのですが、私は昔、性欲というものを憎んでいました。

私は小さい頃、冷静で落ち着いて上品でいることこそが美徳だと考えていましたので、「平常心」というものをとても重要なものだと考えていたのです。常識ある行動ができる、感情に流されない、つまらないことで怒らない、そう言う性質が大事だと思っていたんです。

それに性欲とは淫らで、嫌らしいものってイメージが強かったですから、受け入れがたいものでもありました。大人は性という存在を子供に対しひた隠しにし、子供がその存在に触れようとでもしたらその手をはたき落としますが、私は大人のそう言う態度を見て、自分も性欲というのは「悪いこと」なんだ、タブーなんだ、という認識を小さい頃から無意識のうちに持ってきました。特に、それが人間の平常心を乱す、と言うことを一番私は嫌っていたんです。

私は先ほども言ったとおり平常心というものを大事にしていました。偏向した考えは持ちたくなかったし、政治的な思想においても右でも左でもなく、でもちょっとだけ左の中道左派を自称していました。この「平常心」とか「中道」と言う言葉を、私が今使っている言葉に置き換えると、「ニュートラル」と言う言葉になります。えーっと、どっからそんな言葉が来たのかというと……。

「ニュートリノ」って聞いたことありませんか? あのノーベル賞を受賞した小柴さんがカミオカンデって言う地下のでっかい装置で存在を実証した素粒子の名前です。物理の素粒子学の分野です。ニュートリノは何でこんな名前がついたかって言うと、電気的に中性、つまり+の電荷も-の電荷も持たないからこんな名前なんですね。その語源が「ニュートラル」、つまり「中性」と言うわけです。

私は昔、人間において平常心、真のニュートラルとは何かを考えてみたのですが、これは簡単な話ではありませんでした。それは例えば日曜日の午後にコーヒーをすすってリラックスしているときでしょうか?……ニュートラルってつまり平常心ですからね。それとも、寝て意識がない状態がニュートラルでしょうか。寝ていれば何もしない、感じていないからニュートラルかな? でも、寝てても生きているわけですからね。生きている状態がニュートラルなのか、死んでいる状態が真のニュートラルなのか……。まさかサッカーの試合を見て興奮している人はニュートラルじゃないよね……。

さあ、困りました。このジレンマを解決するには、もう一つ、物理の知恵を借りなければなりません。

高校の物理の授業で「相対性原理」というものを習いました。物体の速度というものはベクトルの数値で表せますが、たとえば同じ自転車に乗っている人の移動速度でも、地面に立って動かずにそれを見ている人、(横移動の)エスカレーターに乗って移動しながら見ている人、そして歩いて見ている人では、それぞれ観測できる速度が異なります。つまり観測者によって速度の値というものはいくらでも違ってくる、と言うわけです。

普通に考えたら「ニュートラル」であるのは「地面に立って動かずに見ている人」のような気がしますが、でも自転車に乗っている人から見れば、その「地面に立って動かずに見ている人」も自転車の進行方向と逆向きに動いているんです。つまり相対性原理の考え方によれば、観測という行為に絶対的な基準というものはない、と言うことになります。

私はこのことは物理だけでなく、倫理や論理にも当てはまると思います。つまり物事に対する評価や判断というものは、なにか基準を設定して初めて相対的に決まるものだ、ということです。基準がなければ、それがその基準点よりどっちにふれているかなんて決めようがありません。そして基準は設定するもの、作り出すものです。つまり元からそこに存在する真のニュートラルというものはなく、何が平常心かなんてほんとは決められないんじゃないかと私は考えたんです。

たとえば、人間は腹が空いたら何かを食べたいと思って食べ物を欲し、それを食べます。眠くなったら睡眠を欲し、寝床に行って寝ます。一見腹も減っていない、眠くもない、ただゆったりと過ごしているのが平常心に思えますが、でも人間の性質から言って栄養が足りなくなったら食べたいと思い、睡眠が足りなければ寝たいと思うのは自然なことです。人間として自然な行為、というものを基準として置いたなら、それはつまりニュートラルであり、平常心じゃないかって思うんです。

私は音楽が好きでいつでも聴いていますが、でも時々不思議に思います。何で音の集合体である音楽が、こんなに人の心を揺さぶるのか。音楽ってのは別になくても死にはしません。でも、例えばライブならいちいち舞台をセットするなんて言う面倒な作業をしてまで開催し、観客もそれにわざわざ足を運びます。音楽好きじゃない、音楽を聴いても何も感じない人から見たら、こいつらなんでこんなに熱狂してるんだ、気が狂ってるんじゃないか、って思うと思うんです。たぶんそれはこいつらは平常心じゃない、って事から来る感想でしょう。

でもなぜか人間は音楽が好きで、たしなみます。(それは他の生物には見られない性質でもありますね。)

人間は、食べ物を食べなかったり、眠らなかったりすると死んでしまいます。だからそれらを求めるのは人間としてニュートラルです。そしてそれだけでなく人間は音楽だとか、一見生命活動とは関係ないようなものまで求めます。音楽をなぜ脳が欲するのか、と言う科学的な話は、将来解明されるかもしれませんが、私は音楽を聴きたいと思ったりそれで熱狂したりするのもやはり人間の自然な欲求であり、ニュートラルなことなのではないかと思います。

話を元に戻しましょう。なぜ求めることが重要か。求めることは一見何か新しい状態を求めるニュートラルでない行為のような気がしますが、上記の考えを適用すれば、やはり求めることも人間として自然な行為なのでニュートラルになります。ある人、そしてそれらが集まったたくさんの人々が成長していく過程で、こんな将来があったらいいな、と心に思い描くのは、人間が与えられた、人間社会、ひいては種の発展のための必要な必然的性質だと思うのです。

求めることをやめれば、その個人も、社会も、人間という種もほどなくして滅びることになるでしょう。求めることは、存在し続けるためにも必要なことです。

食事が特別好きじゃない人でも食べないわけにはいかないように、例え望もうが望まなかろうが、求めること、求め続けることの他に選べる道なんて存在しません。そして、求めるからこそより良いよいものを生み出せるようにもなります。それはまだ見ぬ可能性を切り開くと言うことです。だから私は求めることは必然的なこと、重要なことだと考えているのです。

「――求めることを恐れてはならない、喜びに意味があるなら、それを求めることにも意味がある。」2009年1月12日のwhitecapsより。

■(2009.2.27)

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2009年02月27日

予測できないメソッドライン

年末年始の頃の話ですが、時々電話で連絡を取っている中学の頃の友達と会って話をする機会がありました。その時自分と友達は両方とも自分のパソコンを持ってきていて、それを近所のマクドナルドで開いてお互いに見せ合ったのですが、わたしはMacBookを持って行ったので、そのMacBookにインストールされていたGarageBandを友達に見せることが出来ました。

GarageBandはそもそもが既存のループを組み合わせて曲を作るソフトなのですが、わたしのMacBookに入っているGarageBandにはMagic GarageBandと言う機能があります。(わたしはiBookも持っていてこちらにもGarageBandは入っていますが、こちらはバージョンが古いのでMagic GarageBand機能はありません。)これはステージを模したグラフィカルな画面上で、もともと入っている曲の構成からトラックに組み合わせる楽器をリアルタイムに選んで、試奏させながら曲を作れると言うものです。

せっかくなのでこのMagic GarageBandを友達にやってもらうことにしました。で、私にとってもうれしいことにこれは結構好評で、友達も曲作りを楽しんでくれました。友達が作ってくれたその曲はなかなかイカしていて、バランスがとれた曲だったと思います。

ただ、後日その友達が作った曲をミキシングしてメールに添付して送ったのですが、次会ったときに友達はこんな疑問を言っていました。

「これでほんとに自分で曲を作ったってことになるのかな。」

うーん、そう言われるかもしれないとは思っていました。Magic GarageBandはようは作る人が決められるのは楽器の選択ぐらいです。Magic GarageBandの画面からプロジェクトを作成したのち、編集することは出来るのですが、友達に作ってもらったときは自分が試しにタンバリンのループを配置したところ「ちょっとうるさくなった」と友達が言っていたので、基本的にプロジェクト作成後はトラックの音量を調節したことと、曲の終わりにリバーブをかけたこと以外は何も編集してないわけです。メロディーも元からある物を使うわけだし、これでほんとに曲を作ったって言えるのか?と言う疑問は当然生まれてきます。

そこを言えばGarageBandのコンセプト自体が問題になってきます。GarageBandは元からあるループを組み合わせて曲を作るソフトですから、やはりこれでも曲を作ってることになるのか?と言う疑問まで生まれてきてしまうわけです。(一応GarageBandでもやろうと思えばメロディー自体も作れるには作れますが。)

でも、私はそれでも曲を作っていると言えると思います。

そもそも考えてみてください、ミュージシャンとか芸術家と言ったたぐいのものは作品を完成させる作業の全てを一人で行っているのでしょうか。曲を作るにせよ何にせよ、演奏するためにはギターやピアノなどの楽器が必要で、録音するためにはマイクやコンピュータやらのなんやの機材が必要です。一つの曲でも作曲家と作詞家や編曲家はわかれていたりしますし、プロだって、既存の音声素材を利用しないわけではありません。極論を言えば曲を作るという行為は、作曲家だけでなくそれを成り立たせるスタジオの管理者やギター職人、音楽ソフトの開発者でさえ関わってきていると言えるのです。この考えから言えばGarageBandでループから曲を作ることに関しても同じことが言えそうです。

もちろんやっぱ作ってないよ〜という感想はあります。ただ、どんな作業もそうですが、自分が担当しないところは人が担当し、人が担当しないところは自分が担当してやっているわけですから、そう言う場合は自分が担当する範囲を増やす、たとえばGarageBandならメロディーを一から作ってみるとかドラムのループをアレンジしてみるとかすればいいわけです。

この考え方はプログラミングについても言えることです。大抵プログラミングを学び始める人は、まず本屋などで本を買って学ぼうとします。では、その本を読み終わると何か実用的なソフトが作れるでしょうか?答えはNOです

初心者向けのプログラミングの本というのはその名の通り初心者向けです。だから実用的なソフトが作れるようにまでなるかと言ったらそれは違います。この手の本はその言語の基本的な文法を教えるものです。それは例えば言語上で四則演算はどうやるのかとか、テキストファイルを読み込むにはとか、良くてもボタンはどう作成するのかとか、そう言ったことです。プログラミングの中でスタンダードで特に重要なC言語を例にとると、初心者向けの本では大抵CUIプログラミングに関する情報のみ取り上げられて完結します。これではたとえ一冊読み終わっても、ウィンドウ一つ作れないのです。これは初心者向けの本には低レベルの(とプログラミングでは言います)基礎的な関数しか載っていないと言うことから来ています。

でも、実際の開発者はそうではないですよね。彼らは実用的なソフトを作らなければ仕事になりませんし、実際作っています。じゃあ、彼らはそう言ったソフトを基礎的な関数から作っているのでしょうか? いいえ、そうではないことでしょう。大抵の言語にはライブラリのようなものがあります。これは低レベルの関数を組み合わせて、実際に使うときに使いやすいような中レベルのメソッドに構成するコード群です。実際に実用的なソフトを作ろうと思うなら低レベルの関数からコードを書くような手間はとれません。既にある(つまり会社内の他部門が作ったコードのような)既存のライブラリやコードを活用することになるのです。

でも、ソフトは作ってもライブラリは既存のものを使う。これってGarageBandのループと同じじゃないですか? ソフトを作っていると言っても、それはモジュールを繋ぐためのグルーコードやそのソフトに最低限必要な固有のコードを書くことであり、ライブラリを使っている部分は「作っていない」と言えるのではないでしょうか。

つまりは、さっき言ったことです。自分が担当しないところは人が担当し、人が担当しないところは自分が担当してやっているわけです。「どんなことでも外部のリソース(メソッド)を利用して、それを組み合わせて動かしている」と言うことを、私はメソッド理論と呼んでいます。それは「消しゴム鉛筆を作る」(?)と言う言葉が、鉛筆を作る作業と、消しゴムを作る作業、そしてそれを組み合わせる作業という一連の作業をまとめて(メソッド化して)表現していることと同じです。メソッド理論は音楽やプログラミングだとかに限らず、全ての事象にたいして言えることではないかと思います。

電車に乗っていたら見慣れた灰色のノートパソコンをもった二人組の学生が。iBookかと思ったらPowerBookでした。そして開いたるはLogic Express。GarageBand好きの私ですが、超かっこいいその画面を見て、いつかLogic Expressにステップアップできたらな、と思ったりしています。

■(2009.2.10)

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2009年01月16日

簡単にいかないから生きてゆける

普通に暮らしている限りそんな考え方を思いつくことはないのですが、私の中には「無限の快感理論」と呼んでいる理論があります。人の感覚というものは、実際その人がその人の感覚器で感じている周りの状況やそれらを総合判断した感情によるものですが、もし感覚そのものと周りの環境とを切り離して考えたとき、どういった考えが出来るのかという話です。この理論はいろいろな世間の外部理論から成り立っているので、それも含めて紹介していきましょう。

ハリー・ポッターを読んだことがある人は知っていると思いますが、ハリー・ポッターには「服従の魔法」というものが出てきます。服従の魔法とは文字通り術を掛けた方が掛けられた方を思い通りに操ることが出来る「禁断の魔法」なのですが、このとき術を掛けられた方は、「ふわふわとした幸せな感情」(って感じの表現だったと思う)に包まれて操られてしまうのです。

ここで出てくるのが無限の快感理論です。服従の魔法ではその人が実際何をやっているかにかかわらず(仲間を殺してようが、ハリーと闘ってようが)「幸せな感情」に包まれます。つまり理論上は、その人の幸福感(つまり快感)と周りの状況が関係を持たない場合も考えられるわけです。つまりは何もないのに激しい快感に襲われると言うことがあり得るということです(あくまでも理論上は)。これが私の言う「無限の快感」の定義です。

激しいかどうかは知りませんが、実際の世界にある麻薬もそんなようなものでしょう。麻薬は服用直後は気分が明るく楽しくなるそうです。(じき禁断症状が現れて激しく苦しむことになりますが)。薬物防止運動の理由はいろいろとありますが、その一つが「薬物で快感を感じると努力して喜びを得ることをやめてしまう」というものがあります。ではここで、これを無限の快感の定義と合わせて考えてみましょう。

もし無限の快感のようなものがあれば、やはり人は努力することをやめてしまうだろうと考えられます。何もしなくても快感が得られるからです。しかし、実はこれは難しい問題なのです。幸福を求めることとは、人生上の快感を増やそうとする(または苦痛を排除する)考え方です。誰だって幸福を求めて生きていますが、それは結局はなるべく多くの快感を求めていることと同じではないですか? 例えそれが建設的であれ努力の上であれ何であれ、無限の快感と同じように、ほしいのは快感であって、それを少しでも求めているということになるのではないでしょうか?

ちょっと戸惑ってしまった人もいるかもしれませんが、でも心配は要りません。実際のこの世界では何かと問題はつきものです。努力しないと簡単には幸福は手に入りません(と私は思います)。

ここに、正負の法則という考え方があります。これは『オーラの泉』などで知られる美輪明宏の理論です。つまりは楽しいことがあれば必ず次は苦しいことがあり、苦しいことがあれば必ず次は楽しいことがある。幸福と不幸は裏重ねになっていると言う考え方です。

この考え方は無限の快感理論への一般的な答えでもあります。つまり無限の快感ばかりを感じることには意味はない。苦しみもあるから、快感も意味を持つのだと。ちょうどアンジェラ・アキも「苦しみがあるからこそ あなたを抱きしめるとき その腕の優しさを平和と感じるのでしょう」と歌っているように、その二つの感覚の対比の上に人の欲求は成り立っているのです。

ただし、正負の法則は一般的なポジティブな捉え方をすればいい考え方かもしれませんが、私はテレビでこれを聞いたときこう思いました。つまりはどんなに努力して幸福を手に入れても、その幸福の分だけ苦痛を受けなければならない。どんなに努力しても、ムダになってしまうんだと。

これはつまりジレンマです。苦しみに意味があることによって快感も意味を持ち、だから幸福を求めるべきなのか、それとも幸福を求め苦痛を排除することは苦しみの意義から逃げる悪い行為なのか。

私は今はこう考えます。

「人間として、そして命として生きる、その『過程』に意味を求めたなら、そのことによってはじめて喜怒哀楽は意味を持つことになるだろう。それは時にダイナミックで、またはささやかで有機的なものでなければならない。――求めることを恐れてはならない、喜びに意味があるなら、それを求めることにも意味がある」。

そしてYUIもこう歌っています。「簡単にいかないから生きてゆける」と。

■(2009.1.12)

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2008年10月12日

人はどこまで護るべきか(4)

この記事は前記事の続きです。

――ところで、受験だとか就職試験だとか、これらは人を選別するものに他なりません。あたりまえといえばあたりまえですが、これらは自分たちの組織にとって有用な存在を採用するために必要で重要なプロセスです。しかしこれらに合格しない人たちはどうすればいいでしょうか。もちろん彼らだって怠慢な生活を送っていたからこうなったわけでもありません。でも才能がないとか、頭がよくなかったとか、勉強に身が入らなかったいう理由で切り捨てられるのです。人によっては何かしらのハンディを持っていてそうなったという人もいることでしょう。

ここでは勉強を例にとりましたが、人間は常に何かしらの「評価」の中で生きています。それは社会や人間が与えたものに限らず、ただたんに人生というものを送っているだけで常に問われる物理的で自然な障壁です。人間が持っているこれらの障壁を越える能力は、決して万人に同様に与えられているわけではありません。女性シンガーソングライターであるYUIの歌から言葉を借りれば、「平等なんかじゃないよ」ということです。軽々とこなす人がいれば、人によっては障壁を乗り越えられないこともあります。

実際世の中にいるこういった(誤解を恐れずにいえば)「弱い」存在に対して社会はどういう対応をとればいいのでしょう。(この問いは私も弱者の一人であるという認識の上に投げかける疑問です。)社会は進化論を持ち出して、これらの弱い存在を選別し、淘汰されるべき存在だと識別するでしょうか。

淘汰されるべきと捉える考え方は、段階的解決法に近いかもしれません。自分の種を存続させるのに必要ない弱い存在は切り捨てる、と言う考えです。本来人間は生物なのですから、こういう対応をとるのが自然なのです。(ただし段階的解決法においてでも、いわゆる弱い存在が時には強い存在の役に立つことはあると言うことを見越して、護ろうとする判断もありますが。) しかし、なぜかこの現代社会ではこれらに当てはまらない人間の心理や行動もよく見られます。これらは、基準分割解決法のような考えです。どんな弱い存在でも、人間なら、命なら護られるべきだ、ということなのでしょう。基準分割解決法は夜空認識に通じるところがあります。つまり、「魂まで護る」という考え方です。

私はずっと個人主義というものが好きで、全体主義というものは好んでいません。ただ、前述のように人間を一人一人で分けて見るのみではなく、共同体としてみることも出来るのだと最近になって気づきました。それは何かの組織や企業でも同じです。何か一つのことを成し遂げるために構成員が役割分担をして全体が一つの機構となる、それ全体で一つの命であるとみなせるということです。

ちょっと話を変えますが、私の中に「ヒトラーの首」と呼んでいる理論があります。父親がサスペンスドラマをよく見るので、私も聞き流す機会がよくあるのですが、それを見ていて私はこう思うのです。「絞殺ってよく聞くけど、どうして人間は絞殺されうる形態をしているのだろう。自分を生かし、子孫を残すためには首の周りを完璧に硬い組織でガードして、絞殺されないように進化した方がいいはずなのに――。」

それに対する私の結論はこうです。「人間はわざと殺されやすく進化している」。なぜか考えてみてください。ヒトラーはユダヤ人虐殺を行いました。そしてその行為は人類の存続に対する一つの脅威だったのです。ヒトラーの最後については皆さんご存じの通りですが、もしヒトラーが絞殺で殺されていたとしたら? つまり人間という種はある個体が暴走したときに、他の個体によってその個体を抹殺するための方法を残しているのです。それが「自分に近いものを守る」、つまり「共同体を守る」という本能の対象を広く持ったときの生物の性質の表れです。命を捨ててでも誰かを守ろうとする人がいるのは、その人が死ぬことによって誰かが助かる、種の存続に貢献するという法則の表れなのです。

これまでの人間の歴史をみてみると、初めは民族ごとにいがみ合っていたものが現在では国際平和などとまで言われるように人間全体が一丸となるように変わってきました。これは文明が発達し豊かになると護れる対象が増えることを示しているのかもしれません。

長くなりましたが、以上が「人間はどこまで護るべきか」と言った命題に対する私なりの答えとそれに関連する事柄です。皆さんも、自分は段階的解決法と基準分割解決法のどちらの考え方で行動しているか(あるいはミックスされているか)、考えてみてください。

■(Date Unknown)

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2008年10月09日

人はどこまで護るべきか(3)

この記事は前記事の続きです。

――では人間がとれるこれらの理論に対する解決策はなんでしょう。人間はどこまで護ればいいのでしょうか。そのアプローチは二つあります。

一つは「段階的に護る」ことです。つまり自分に近い存在から重要度をランク付けして護っていくと言うことです。たとえばそれは「まず第一に自分を護り、その次に家族を護り、次に親戚を護り、友達を護り、地域を護り、次に国を、そのまた次に民族を護り、人間を護り、動物を護り、生物を護る」と言った具合にです。順番こそ違うかもしれませんが、こういった認識は無意識のうちに誰の中にでもあると思われます。

二つ目は「基準で区切って護る」ことです。たとえば「人間まで護る」または「動物まで護る」、「命まで護る」と言った具合です。この解決策では基準に適合した対象は全て平等に護られることになります。今はそんな人はいないのかもしれませんが白人至上主義者の人なら「白人まで護る」と言うでしょうし、古代アテネの市民なら「市民まで護る(奴隷は護らない)」と言った具合になるでしょう。ただし啓蒙思想にせよなんにせよ、平等というものはあくまでもどんな時代においても対象内が平等なのであって、対象から外れる存在は置き去りにされていると言うことを忘れてはなりません。また、自分が含まれる対象範囲を平等に護ると言うことは、自分自身がその思想によって護られることでもあります。この場合、誰かを護ろうとするのは、自分を護ろうとするための無意識のうちの感情だとも言えるということです。

日頃社会生活を過ごしていてこういった理念があると言うことに気づかないのは、この「どこまで護るか」と言ったことがその場の感情や当人の直感で決められたり、社会が暗黙の基準をそこに暮らしている人たちに与えているからでしょう。誰だって村八分にされるのはいやですし、もし10中自分以外の9人がそうだと言えば自分も「そういうもんだろう」と思うものです。

基本的に人間は同じ共同体の中で生きていると同化します。国と言う単位はそのいい例です。同じ共同体の中で生きていると言うだけで意見まで似てきて、別の共同体に所属していると言うだけで憎み合ったりすることもあります。

「オリンピックは国同士の争いではない、選手同士の闘いなのだ」と言う言葉があるそうですが、オリンピックは誰がどう見ても観客から見れば国同士の戦いです。テレビでも選手名の近くには必ず国旗のマークが表示されますし、日本人がメダルを取ったと言えばテレビのインタビューに答える人はそれを褒め称えます。例えその人が全くその選手と知り合いですらなくてもです。これは日本という一つの共同体の一員としての感情です。つまり「仲間がメダルを取った!喜ばしい!」ということです。

私は同じ人間ならば民族の違いなどなんの意味も持たない(もっとも私なんかは外国の人にはどう対応したらわからないので実生活では関わろうとしないでしょうが)、国をまたいでも住んでる場所が違うだけで海外のニュースももっと見たいし、家族だから特別になんとかだとか、コネを使って就職とかいう意見はあまり好きではありません。また、これは個人的好みですが、とりあえず民主主義ならどんな国でも敵でないし、宗教もとらわれたくない(てか無宗教の方がいい)と思っています。

しかし、それらにこだわる人たちもいます。相変わらず民族紛争は続いているし、宗教観の外部内部を含めた対立、過度のナショナリズム、会社内の派閥争いなどもあります。私はこれらの考えには与したくないですが、ただ、それらは先ほど述べたとおりに生物の理念としてごくごく自然な行為とも言えないわけではありません。

資本主義は段階的解決法、共産主義は基準分割解決法だと言えるかもしれません。資本主義で各個人が貯めるお金は各個人やその家族のために主に使われます。共産主義では国民という基準内の対象はみんな同じ待遇です。(理念がそうであると言っているだけで実際にそうであるかどうかは言ってません。) ハッカー倫理では「情報は共有されるべき」だとされています。これは全てのネットユーザーが平等であるべきという考えともいえるでしょう。――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

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2008年10月05日

人はどこまで護るべきか(2)

この記事は前記事の続きです。

――たとえば黒人を奴隷として使っていた昔のアメリカ人は、例え同じ人間であっても黒人を自分たちと同じ人間だと認め、自分たちと同じように保護されるべき対象として考えていませんでした。9.11テロを起こしたテロリストは、アメリカ人のことを敵視していますし、自分たちと同じ護られるべき人間であると思っていません。世界で多発する民族紛争ではお互いが互いの民族を拒絶し、その民族は相手の民族を自分と同じように保護されるべき対象だと思っていません。

ここで言う「護る」とは、そこに命や生活を保つための何かしらの権利があると見なすと言うことです。日本国憲法の生存権なんかを想像してもらえればいいかと思います。学校の世界史の授業で習った内容に「カノッサの屈辱」というものがありますが、これは中世のヨーロッパにおいて、絶大的な権力を持つ教皇に対して反抗的な態度をとった王が破門され、破門を取り消して貰うために王が教皇の前で土下座して謝ったという話だそうです。なぜそこまで破門を怖がるのかというと、それは「破門」ということが、当時のキリスト教が広まっている社会において「おまえはキリスト教徒ではない。まともな人間ではない。誰かに殺されても何も文句も言えない。誰もおまえの権利を認めない」と言う意味を持つからです。つまりここで言う「護られない」ということです。

基本的に、人間は自分と何かしらの要素が同じまたは近い存在を護ろうとします。これはどうしてでしょう。

私が昔ブログに書いたことなのですが、「なぜ生物は生きようとするのか」ということを題にして記事を書いたことがありました。人間が喉が渇いたら水を飲もうとするのは、腹が減ったら食べ物を食べたくなるのは、生きようとするために他なりません。例えそれらを用意するのに働いたり苦痛を感じたりしなくてはいけなくてもです。そして、その答えはこうでした。

「生きようとする生物と生きようとしない生物が偶然現れたとき、生きようとしない生物は生き続けることが出来ず死に絶える。生きようとする生物は生き残り、世界には生きようとする生物だけが残る。と言うことは世界に現存する生物はすべて生きようとする生物だけになるので、生物はどれでも生き残ろうとしているように見える。」

生物がその姿を長きにわたってとどめるには、子孫を残すしかありません。もし自分とは似てもにつかない生物を護ろうとするような個体が現れたとき、その個体は自分の子孫を残せず、死に絶えます。自分の子孫、または自分に近い生物を守ろうとする個体は、自分に似た個体を残すため、種は生き残ります。つまり、自分に近いものを守ろうとする生物だけが世界に残ることになり、必然的に生物は自分に近いものを守ろうとするようになっているように見えるわけです。これは人間でも同じ事です。

民族であれ国であれ種であれ地域であれ血縁関係であれ家族であれ、そして人間のみにおいて確認できるできる宗教やイデオロギーとか何とかであれ、それらに所属する人はその共同体を守ろうとします。それは自分に似たものを守ろうとしているからです。それはさっき言ったように、生物の基本的な行動理念なのです。――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

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2008年10月03日

人はどこまで護るべきか(1)

dialog-warning.pngこの記事では冷徹かつ客観的な見方をするために、さまざまな政治的な意見をそのままとり上げています。whitecapsの主義主張がそれらに含まれているわけではありません。

あなたは、捕鯨問題とか、犬食問題について知っていますか? 捕鯨問題はもう長い間世間一般で考えられている問題ですし、私も最近犬食についての記事を新聞で読みました。捕鯨問題では鯨の絶滅を防ぐというのが捕鯨反対派の主な理由ですが、人によっては「鯨はほ乳類で賢い動物だから殺してはいけない」と言った理由で反対したり、犬も「あんなにかわいいペットである犬を食べてしまうなんて可哀想だ」との理由で犬食に反対する人もいるとのことです。韓国では伝統的に犬食があり、固有の文化として根付いているそうですが、W杯の時にはそれに反対する行動が起きて、犬食派と反対派で対立が起きて、店が犬料理を出すのをやめるという事態になったこともあったそうです。

しかし、です。鯨や犬は食べるのは可哀想でも、豚肉を食べるのが可哀想だという人はあまりいません。豚だって屠殺されるところなんて見たくないとその人たちも思うでしょうが、でも豚肉を食べること自体は抵抗感はないのではないのでしょうか。豚と鯨、犬の間には一体どんな違いがあるのでしょう。さっきも書きましたがそれは、捕鯨反対派の人は鯨が「賢い」から、反対するのです。犬食反対派の人は犬が「かわいくて」「ペット」だから反対するのです。彼らにとって、「賢く」なかったり、「ペット」でなかったりするものは保護の対象ではありません。だから豚は保護の対象ではなく、食べても問題ないのです。

人によっては、「豚だって殺して食べちゃうのは可哀想」と思う人もいると思います。それは「豚だって痛みを感じる動物だから」と言う理由です。ベジタリアンと呼ばれる人たちがいますが、彼らは鯨や犬などに限らず動物の肉はみんな食べません。これは動物が「痛みを感じる動物」であるから食べないという方針です。この場合「動物」でない植物などは保護の対象ではありません。

人間だって何かしら食べないと死んでしまいますし、植物を食べるのが可哀想だという人はあまりいませんが、大人は子供が木に棒をたたきつけて遊んでいたら怒ります。特別な例ですが、樹齢がかなり高い桜などの老木を守ろうと活動している人たちもいます。植物も保護の対象にはいることがあるわけです。

よくテレビなどで「命を護る」という言葉が使われますが、この場合ダニは命にはいるでしょうか。ダニは私たちの足元にウジャウジャいて到底踏みつぶすなと言われても叶いません。まるで蚊を殺すなと言う犬公方のような判断です。

ここで大事なのは「どこまで護るのか」と言う基準です。捕鯨反対派は自分たち人間を含めたほ乳類という範囲を守ろうとしています。犬食反対派はペットまで含めて守ろうとしています。ベジタリアンは「動物」と言う範囲まで守ろうとします。――

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2008年09月25日

脳コマンド学(3)

この記事は前記事の続きです。

「わからない」とは

――「わからない」とはどういう事でしょう。それはたぶん、「解を見つけ出す方法がわからない」すなわち「解を求めるためのコマンドが存在しない」ということではないでしょうか。もし解を求めることが出来るコマンドがなければその入力された問題を答えの情報に変換することなど出来ません。これは先ほどのコマンド開発が処理に必要な程度に追いついていないことも示します。また、基礎となる概念がわからなくて応用問題が解けないことがありますが、これはあるコマンドが利用する別の基礎的なコマンドが存在していないと言うことの表れとも言えるでしょう。わからないことをわかろうとするには、基礎となるコマンド、解を導くコマンドを開発しなければならないのです。それすなわち勉強と実践です。また、「わからないことがわかる」とは解を導くためのコマンドが欠如していると言うことを基幹コマンドが理解していると言うことなのだと思います。

ちなみにたとえコマンドが存在しても、そのインストールパスがわからないとそれを呼び出すことは出来ません。使う側のコマンドが、使われる側のコマンドがどこにあるか知っていることが必要です。

ランタイムとSDK

音楽を聴いたとき、そこには感情が生まれます。しかしこれは不思議です。音楽において感情を生み出す主要素はコードですが、コードについて詳しくない人でも音楽の感情はつかめます。しかしコードがわからないと感情も生まれないはずです。もし音楽に感情を感じるならば、その人はコード理論について理解していることになるのではないでしょうか。ならば勉強しなくても誰でも作曲が出来るのではないか? 

残念ながら実際のところはそうではないようです。私にもわからないですが、これはたぶんランタイムとSDKは違うと言うことではないでしょうか。コードを読み込んで感情を出力できるコマンドはあるものの、それは無意識の領域に深く入り込んでおり、人間の意識から直接呼び出せるわけではない。しかもそのコマンドは感じる能力はあるものの作り出す能力はない。作曲をするためにはランタイムがどういう反応を示すのか予測して音を構築できるSDKのようなコマンドが別途必要になるのではないかと言うことです。

まとめ

以上が脳コマンド学のはしりです。あくまでもこれらは机上の空論ですし、人間が意識して認識するものではありませんが、考え方としては面白いものではないでしょうか。コマンドと脳の回路がどう対応しているのか考えるのは、脳科学的にも興味深い課題だと思います。

■(2008.9.11〜)

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2008年09月23日

脳コマンド学(2)

この記事は前記事の続きです。

画像ファイルはどこにある?

――よく記憶というのは脳では神経細胞の回路のつながり方によって記録されると言います。脳はパソコンと違ってCPUとハードディスクのように記録(記憶)と思考器官が分かれたりしていなく、思考も記憶も同様の場所で行っているようです(過去の体験を記録するための海馬とかはありますが)。また、視覚情報を例にとるとパソコンにおいては画像ファイル形式でデータファイルとして扱われますが、脳ではそれらしい記録形式は見つかりません。この違いはどう説明すればいいでしょうか。

Linuxではアイコンの画像情報なども実行形式ファイルとして保持することがあります。まさに実行形式ファイルに重きを置くLinux的なアプローチです。(ちなみにWindowsのexe形式も中にアイコン情報を持っています。)実行形式ファイルなら何だって出来ます。例えそれがどんな画像であれ、実行形式ならその情報を保持できるのです。これをヒントにすると、脳でも同じ事が言えそうです。画像ファイルなどという形式ではないけれど、コマンドという回路で記憶を保持しているのです。

自己解析性

最近考えたことに、自己解析性があります。それはコマンドが自分自身を解析する能力です。コマンドはただ存在するだけでは自分がどういう機能を持ったコマンドであるか、認識することは出来ません。解析用の別のコマンドを使ってはじめて自分が何をするためのコマンドなのか理解することが出来ます。

人間は非常に自己解析性に優れていると言えます。医療研究がその典型です。人間は自分の体がどうなっているか知ることで、病気になったときなど有効な治療方法を見つけ出します。たとえば風邪を引いたら薬を飲みますが、人間は風邪に効く薬は何かとか誰かが調べたから飲むのです。自分を理解することで、人間は発展していると言えると思います。

ブラックボックス

勉強が何のためにあるかといったら、それはコマンドを開発するためです。1+1=2になるという正しい法則を頭の中に植え付けるのです。つまり「x=1、y=1を入力されたときに出力はz=2になった、どういう計算が行われているか」なら「足し算」ですし、「小論文を書きなさい」と入力されたときには、書き上げた小論文が出力です。ある情報を入力されたときに、それを変換して出力するのがコマンドです。「ブラックボックス」といえばわかりやすいかもしれません。そして勉強とは、そのブラックボックスを構築して、いつでも正しい答えを導き出すためのものに相違ないのです。――

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ラベル:Linux
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2008年09月21日

脳コマンド学(1)

はじめに

ブログのコラム、『デジタルはデジタル、アナログもデジタル』でも書きましたが、私はこの世界の構成はほぼコンピュータ科学を拡張することで表現できると考えています。普通「パソコンと現実は違うだろう」と思うかと思います。なぜならば現実の世界とパソコンは全く似ていないように思えるからです。しかし、もしこの世界がある一定の物理法則に沿って動く巨大なデジタル世界であると考えたならば、それはコンピュータと基本的には同じです。そしてコンピュータの性能が現在から飛躍的にアップしたと考えたならば、将来的には物理世界に含まれる非常に微妙な要素においても、的確な計算をすることが可能になることになります。

脳コマンド学

そして私は今、脳科学にもコンピュータ科学的なアプローチが使えるのではないかとも考えています。その主なものが私が勝手に名付けた「脳コマンド学」です。

Linuxではコマンド(実行形式ファイル)を組み合わせて使うことでソフトを動かします。ユーザーが操作すると、あるコマンドが起動し、そのコマンドが別の必要なコマンド(複数のこともある)を動かして命令を実行するという考え方です。そして、コマンド間では情報の受け渡しが行われ、処理が続きます。このコマンドの動きを脳の働きに当てはめてかんがえるのが脳コマンド学です。

実際のところ脳がどうなっているのかは私には分からないですし、脳の中をどう電気信号が流れたからこうなったとかそういうことも分かりません。しかし、いわゆる比喩として、脳コマンド学は使えると思います。脳にせよパソコンにせよ、情報を処理していることに代わりはないからです。

絶対服従と乗っ取り

友達に『コードギアス 反逆のルルーシュ』というアニメを勧められたので見てみましたところ、脳コマンド学に関する一つのテーマが思い浮かびました。このアニメではギアスという特殊能力を持っている人々が登場するのですが、主人公のギアスでは特殊な状態の目をもって人の目と視線を合わせることで絶対服従の催眠を相手に掛けることが出来ます。

これを脳コマンド学に当てはめてみたのです。脳コマンド学では活動・判断・能力などの全てをコマンドの振る舞いとして考えます。この場合、絶対服従の催眠とは、それすなわち乗っ取りです。現実のパソコンでもクラッカー(いわゆるハッカー。「ハッカー」は誤用)によってインターネットにつないでいるパソコンが乗っ取られることがありますが、それと同じです。

Mac OS XのTime Machine(バックアップ機能)を拡張するためのオンラインソフトがありますが、そのソフトではMac OS Xの重要なデーモンであるlaunchdを置き換えます。もちろんこれはユーザの許可を得た上で行われることなので全く問題はないのですが、クラッカーたちが行う乗っ取りは、ユーザーが意図せずにこれと同様の方法で悪意のあるソフトをインストールします。

絶対服従とは、全ての判断のおおもとを下す基幹デーモン(私はこれをルートサーバコマンドと呼んでいます)を置き換える行為です。またはルートサーバコマンドに分からないようにルートサーバコマンドが使う主要コマンドを置き換える行為です。これらが置き換わると、その人は前までとは全く別の判断を下すことになります。つまり「服従しよう」という判断が生み出されるのです。(ここではそう書きましたが、「服従しよう」などという生やさしい「判断」ではなく、乗っ取りとは洗脳です。)――

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2008年09月15日

自由とはとらわれること

一般に「自由」でありたいと、誰もがそう思っていることと思います。あまりこの言葉を意識しない人でも少なくとも不自由にはなりたくないことでしょう。私の理念の中でも「自由」は重要な要素です。そこで、今回の記事では歴史的にも哲学で重要なテーマである「自由」について私の独自的な見解を述べたいと思います。

まず自由といったらどういう事でしょうか。以下に一般的な定義を適当に並べてみたいと思います。
  • 何にも束縛されない
  • 誰にも邪魔されない
  • 何でも出来る
  • 障壁がない
  • 自分の思うとおりに生きられる
  • そう、自由である。
これらが大体のイメージでしょう。これらを冷徹な定義でまとめた場合、上記の定義は以下の定義にまとめられると思います。
  • 欲求通りに生きられる
でも考えてみてください。欲求通りに生きると言うことは、欲求というものにはとらわれていることになるのではないでしょうか。束縛されないということは、何にもとらわれることはない、欲求にもとらわれることがないことなのではないでしょうか。欲求さえなければ、何も求めることもない、求めることがなければ邪魔されることもないのでは?

じゃあ、とりあえず欲求を捨ててみてください(この記事は読もうとしてください!)。どうでしょうか。自由になった感じですか? とんでもないですよね。ご飯を食べようとしなければ、テレビを見ようとしなければ、会話をしようとしなければ、音楽を聴こうとしなければ、食べ物に舌鼓を打つこともなく、野球中継に熱くなることもなく、会話を楽しむこともなく、音楽に胸打たれることもない。そう、何も楽しいことはない。何も楽しいことがないって「不自由」ですよね?

欲求通りに生きることが自由でなく、しかも欲求を捨てて生きても自由はない。そういったことがこの思考実験から導き出されます。そう、私は基本的に自由というものはこの世界に生きている限りないものだと思っています。自由は存在しない、のです。

でも、それじゃつまんないですよね。大体そんな考え方をしていたらこれからどう生きていけばいいのか自体わからなくなってしまいます。

私は、「幸福を得ることが出来る自由」というものがあると思っています。幸福になれないことは不自由なものです。本当に自由な、フリーな状態というのは無いと先ほど導きましたが、生きていれば必ず道を選ばなければならない場面にぶち当たることがあります。それならば例えそれが人為的であっても、「幸福な生活を送れる」ということを「自由である」と、そう定義してみると良いのではないか?と私は考えるわけです。

そして、幸福というある種の自由を手に入れるためには、欲求にとらわれなければならない。欲求により行動しなければならない。つまり、「自由とはとらわれること」になるのです。まあ、結局はこう考えると一般的な自由の定義とそう変わらない結論にはなってしまうのですが……。

「自由はどこにもない、だからこそ尊い。」

■(Date Unknown)

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2008年08月14日

デジタルはデジタル、アナログもデジタル

dialog-warning.png以下の記事ではまだよく熟考されていないドラフト段階の哲学理論が述べられています。また、この記事での「デジタル」とは量子化および標本化したデータという意味ではなく、パソコンで扱えるような0と1に置き換えることの出来るデータという意味としてこの言葉を使っています。

よく「私はアナログ人間だから……」と言う言葉をよく聞きます。人付き合いをうまくやりたいならそう言った方が良いとまで言う指南書さえあります。これは「アナログ人間だから……」と言う言葉が聞く人に「この人はきちきちしてない柔らかい人格なんだな」という印象を与えるからです。

そういう言葉を口にする人、聞く人はもちろん、普通の人はアナログとデジタルは相反するもの、対照的なものと思っている人が多いことでしょう。でも、私はこう考えます。アナログも、実はデジタルなのだと。

私は科学に詳しい人間というわけでないのでここは他の情報源の受け売りなのですが、アナログ情報は正弦波で出来ていると言われているそうです。正弦波とはあの皆さんご存じのとおりのsin(サイン)が作り出す波のことです。ちなみにデジタル情報は矩形波(square)といってonとoff、1と0を表す波です。

アナログ情報が正弦波の集まりで出来ている、と言うことは、その波の形はsinを使った数式で表せます。あれ?数式で表せる、と言うことはどういう事でしょうか。そう、数学的なデータで表せると言うことですよね。数学的なデータと言うことは、パソコンで扱える、最終的には0と1からなるデジタルデータなわけです。

私は正弦波と矩形波の違いについて本の図解で読みました。そこには図が書いてあり、正弦波のグラフが載っていたわけですが、よく考えてみればこの本はDTPの技術、つまりパソコンを使って作られたものであるわけです。正弦波の図が載っていると言うことは、正弦波はパソコンで扱える、デジタルデータであると言うことになるわけです。じゃないとその本に正確な正弦波を掲載するなんて事は不可能でしょう。これからもアナログがデジタルだと言うことがわかります。

アナログもデジタルであることは納得していただけたのではと思いますが、ここからはこの理論から導き出される考え方を述べてみましょう。

正弦波を数式で表すと言うことはベクトル画像の考え方に似ています。ベクトル画像もそれらの図形が持つ輪郭の曲線を数式で保持して表しているからです。と言うことはベクトル画像が解像度に制限がないように、アナログ情報も解像度に制限がないのではないでしょうか、ベクトル画像をズームするように、どこまでも高品質な情報が得られるのではないしょうか。

また、紙に印刷された文字はそれがプリンタでラスタライズされていることを見る人に意識させません。それがあまりにも高精細すぎて人間の目には画素が見えないからです。あまりにも高精細なデジタルデータはアナログデータと同じように見える。これは、こうも考えられないでしょうか。つまり、一般に人々がアナログだと思っている物体は、全て無限と言えるほど高精細なデジタルデータから出来ているのではないかという考え方です。

もし本当にデジタルでないアナログなデータがあるとしたら、そのデータはこの世界に存在できないのではないでしょうか、なぜならこの世界というハードがそのアナログデータというソフトを扱うと言うことが出来ないからです。

ちょっと理解しにくい話になってしまったかもしれませんが、私はこれからは「私はデジタル人間だから……」といって生きていこうと思います(……)。

■(2008.8.11)

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2008年06月06日

オープンソースは魔法の粉ではない(2)

この記事は前記事の続きです。

◆ ◆ ◆

――では、本題に入りましょう。オープンソースはどのようなコンテンツに対して有効なのでしょうか。

MozillaやGIMP、Linux、そしてその情報サイト版のオープンソースであるWikipediaを見ていればわかるとおり、オープンソースは成功を収めています。これは一般に言われていることの受け売りですが、これらのものは「集合知」の結果ということが言えると思います。つまり情報を公開して共有することによって活動が促進される場合のものがオープンソースに適している分野と言えるということです。

たとえばオープンソースは、同じコードを書くのに複数の努力をしないで済むという点が利点です。コードがプロプライエタリで企業が作っている場合、コードは利潤を生み出すものですから、外部には公開しません。つまり同じ機能を実現するコードが複数の企業内部で、並立的に作成されることになるのです。これはある意味無駄な労力です。コードが公開されていれば誰でもコードを使えるのですから、同じ機能を実現するコードが既にあればそれを利用して、無駄な労力をかける必要がなくなります。そうすればほんとにオリジナルな、新しい部分だけを書くために労力を使うことで、プロジェクトの効率を高めることができるでしょう。

◆ ◆ ◆

――私は何にでも一定の法則で対処しようと思う方なので、このオープンソースの考え方をいろいろなところに適用しようと考えました。たとえば、小説や音楽をオープンソースで作ったりとか、(アニメ好きの私ですから)アニメーション作品をオープンソースで作れないかと考えたりしたのです。

しかし、こういった試みはあまり聞きません。やはり、これらの分野にオープンソースを適用するのは問題がいろいろと考えられると思います。それは、作品を作るときにかかる労力と方向性、利潤の問題です。

まずオープンソースは人間の労力を消費します。どんなソフトウェアや作品を作るのにも労力が必要となります。どの形態の作品でも、作るのには時間がかかりますし、頭も使いますし、ストレスもかかります。人間の労力を消費すると言うことは、活動するために携わる人間を養うだけの食料(?)や資金が必要になると言うことです。

成果物を無償で配布するようなオープンソース活動でも、それを作るためには大抵世間から有償のリソースを持ってくることが必要になります。私のことを言えば、音楽を作るため(これはオープンソースではありませんが)にはGarageBandとそのJamPackを動かすためにCPU、メモリ、ハードディスク容量共に性能のいい機体が必要になります(私のiBook G4では再生すら出来ないことがよくあります)。これらはもちろんパソコンショップでただで配布されているわけではありません。Flashアニメーションならともかく、映像作品的なアニメーションを作ろうなんて言ったら、それこそMac ProとXserveが何台も必要になります。製作用のソフトウェア代だけでも馬鹿にならないでしょう。――

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2008年05月28日

More is Different(4)

この記事は前記事の続きです。

――重層的に行うと言うことは表現方法として重要です。もともと人の感覚というのは重層的なものです。たとえば空腹感とは何か食べ物を食べたいという気持ちだけでなく、お腹がグーッと鳴ったり、(あくまで空腹で)痛かったり、重層的に感じて成り立っているものです。一般に一つの言葉で表される感覚が、個々の感覚を重層的にして成り立っていることはよくあります。重層的に表現することによって、作品に深みを与えることも出来ます。

三つ目にうつりましょう。三つ目は「質感としてデコードされる段階で鑑賞者によってその結果の質感が変わってくる」でした。

よく、同じものでも鑑賞する人によって芸術作品などへの評価が違いますが、これは質感の感じ方が違うからです。そのものが持つ良さを、強く感じる人はその作品にいい評価を付けますし、反対にあまり感じない人はたいした評価を付けません。よく感じる人でも、鑑賞したときの時期や環境によってもその強さなどの質感は変化します。これはまちまちです。

ちなみに、強く感じることがいいことばかりでもありません。人によっては苦痛を無駄に人よりも強く感じることもあります。たとえば高所恐怖症などがそうです。高いところを怖く思うのは「高いところにいる」という危険に対する正しい反応ですが、それが過ぎて高所恐怖症になると吊り橋を渡るときなど実際の生活(でも吊り橋は稀か。)で時々困った状況に陥ることもあります。

以上の三つが、作品と質感の対比から導き出される哲学です。特に「物理的な情報が質感を示す」は重要だと私は思っています。コンピュータなどの(乱暴に言えば)数学的な計算機が、芸術に大きく寄与できるのも、この法則があるからでしょう。

作品を見るときは、その作り方を考えると面白いものです。制作者がどう苦労して、どのソフトをどう操作して、どの要素にどういった効果を込めたのかとか、この絵のパスはこうなってるんだなとか考えると、作品鑑賞が楽しくなると思います。

■(2008.5.1)

※使い方が同じかどうかはわかりませんが、「質感」という言葉は、NHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』で知ったものです。
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2008年05月26日

More is Different(3)

この記事は前記事の続きです。

――どんな質感も、物理的な情報にされると言うことは、逆に捉えれば、物理的な情報が質感を示すと言うことも指しています。たとえば雷のあの空間を切り裂くような存在感も、作品(この場合は動画)上では、光の筋のフラッシュという映像情報からと、そしてそれに付加する雷鳴のとどろきの音情報から導かれます。

この法則はアーティストにとってとても重要で大きな強みです。芸術家は雷の存在感という質感を、光の筋と言う映像作品を描くことによって表現できることになるからです。(当たり前ですね。) それは芸術家がその心を鑑賞者に伝播する唯一の方法でもあります。

そして強みとは、(コンピュータ上で言うPhotoshopとかで)背景を暗くし、雷にBlurをかけるという物理的な情報編集方法によって雷の壮絶さという質感を表現することも出来ることになるということです。要素を適切に配置すれば、適切な効果が得られます。音楽を例にとってみれば、ある雰囲気を作りたければ楽器の種類を変えたり、コードを吟味したり、エフェクトもかけてみればいいことになるわけです。

私がblightで使った強調方法を紹介しましょう。(私が勝手に作った作品で済みません。) 私は構想を元に、作品に壮絶感のある景色を与えたいと思いました。

【blightについて足の描き方について知り合いからクレームがつきました。私がいまだこれを解決するための足の正しい描き方を身につけていないということと、この作品がInkscape上でかなり重い作品になっていて私のiBook G4のスペックでは編集できないことから、改善の道のりはたっていません。】

そこでまず登場人物の表情をきつくしました。そして人物の服はぐしょぐしょに濡れていて、服には泥が付いていて、人物は頬に付いた泥を手の甲でぬぐっています。

画面上に斜め線の豪雨を降らすだけでなく、背後に雷を落とし(先ほど雷を例にとったのはこのためです)、雷で雨を光らせ、人物の影になっているところは光が当たらないので雨は描かず、水たまりには雷を反射させ、雷にはぼかしをかけ、発光している様子を克明に示す、などのことを重層的に行いました。

これらのものは最終的な出力としてはただの画素になってしまいますが、その画像を見たときそれらの壮絶感が見る人の心の中に適切にデコードされることでしょう。――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

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2008年05月24日

More is Different(2)

この記事は前記事の続きです。

――作品が作られ、鑑賞して消化される流れにおいて、作品は、

質感(制作者内)→作品(出荷段階)→質感(鑑賞者内)

と言う変遷を持ちます。つまり制作者は作品が持つ質感を理解して作品を制作し、作品として出力し、鑑賞者はそれを受け取って質感として鑑賞すると言うことです。

これは三つの哲学を示します。一つは「質感を制作者が隅々まで理解していないと作品は作れない」と言うことです。二つ目は「どんな質感も出荷段階では作品という物理的な情報に変換される」と言うことです。そして、三つ目は、「質感としてデコードされる段階で鑑賞者によってその結果の質感が変わってくる」と言うことです。

一つ目の「質感を制作者が理解していないと作品は作れない」ことについて話しましょう。たとえば小説を作るためには直接文字を創出させるような芸当は出来ません。必ずあらすじを考えてからのスタートとなります。絵を描くためには構図を考えなければなりませんし、アニメは絵コンテがないと作れません。制作者はそれらの要素がどういった質感を持つのか考えなければなりませんし、鑑賞者がそれをどうデコード(作品を質感に変換)するのかと言ったことを考えなければなりません

二つ目の「どんな質感も出荷段階では作品という物理的な情報に変換される」は私にとっては最近知った新鮮な考え方でした。普通の人にとってはそんなはずはなくて当たり前かもしれませんが、わたしにとって昔、音楽は音楽(の感覚)そのままで、絵画は絵画(の感覚)そのままで、それが画素やベクトルの集まりだとか、波形や楽譜情報だとかであることは理解していなかったのです。

例をとれば、人間は誰が誰であるかの識別にその人それぞれの顔と言う外見上の特徴を使うということが取り上げられるでしょう。信じられないことにわたしは昔、その人が存在する限りそれは無二のものであり、その唯一性で存在を識別するのであって、外見から識別するものだとは思っていませんでした。(なんのこっちゃ。) 

しかし、今漫画風の絵を描くようになって、キャラクターは外見で識別するものであって、その識別の結果鑑賞者はその存在を認識できるようになるものなのだとわかりました。キャラクターの生き生きとした命とでも言えるものは、一見それとは関係ないような(?)外見からも認識されるものなのです。――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

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2008年05月22日

More is Different(1)

※この記事では芸術作品を制作するときに使える法則を示しますが、私は芸術に関しては個人的に研究しているだけであって、世間で通用するような経験があってこれを書いているわけではありません。「またwhitecapsがなんかエラそうなこと言ってるよ」と言った感じに軽く受け止めてください。

回の記事では私の芸術に関して個人的に見つけたセオリーを取り上げます。それは私が作品を作っていてよく感じることで、言いようによっては当たり前なことです。

話をはじめるにあたって、話の要素としてまず二つの対になるものを定義します。それは、「作品」と「質感」です。

作品」は作品です。より詳しく定義するなら、物理的な作品の情報とでも言えばいいでしょうか。(私にとって)わかりやすくコンピュータ的に例を言うと、それは写真で言えばRAWファイルであり、音楽で言えばAIFFファイルであり、動画で言えばQuickTimeムービーです(例がいまいちですが、JPEGとかは圧縮されているので誤解を生むかもしれないと思いました)。

質感」とは、質感です。より詳しく定義するなら、人間が作品から感じる感覚と言えばいいでしょうか。写真を見たとき、音楽を聴いたとき、人が感じる感覚と感情が質感です。布目の画像を見て布の質感を感じとるのもそうですし、映画を見て感動するのも質感です。

私は以前、学校の文化祭関係のある冊子に「人間は見ているのではない、視ているのだ」と言う一種の格言のような自由律俳句を載せました。この言葉の意味は、「人間は目という器官で画像情報を受け取っているが、実際にそれを理解するときはその画像を解析した結果で理解している」というものです。

つまり人がコップを視ればそれを単に画像として捉えるのではなく、テーブルの上にコップがのっており、そこまでの距離は大体いくらで、色は何色に塗ってあり、中の飲み物は熱そうだ、とかそう言う要素を無意識のうちに理解して感じると言うことです。この例の場合、人間が目で捉えたコップの映像情報はQuickTimeムービーのような「作品」で、コップの中の飲み物の熱さの推測の感覚は「質感」と言うことになります。――

この記事にはまだ続きがあります。続きは数日後に載せるつもりです。

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