お知らせ:『そのコード、異端か革命か』は文章全体の構想が大きいので、書き上がっている一部の文章だけ前回の記事として先行して載せました。いずれ続きも書くつもりですが、それらが仕上がるまで掲載は間が開きます。
いきなりな質問ですが、「求める事」って、果たして正しいことなのでしょうか? 私は何かにつまずいたとき、どうしてもそんな疑問が思い浮かぶことがあります。
「求めると苦しくなる」という言葉を聞いたことがあります。たとえば「なにかをもっとうまくなりたい」「もっと上に上がりたい」「もっと楽な暮らしをしたい」と思ったとき、それは求めていると言えますが、でも、それらは叶えられることばかりではありません。無い物ねだりをしてもただむなしいだけのように、叶えられない望みがあると、心は苦しくなります。そして無いものをねだっても叶いようがないのですから、苦しくならないように、求めることをやめる、そうした方が心中は穏やかに暮らせるよ、と言う意味をこの言葉は持っているということのようです。
でも、私は今、常に求め続けています。さっきの話は本当のことだと思いますが、でも私は求めます。一体なにを求めるのか?って聞かれても答えられないのですが、でも、何かを求めていると思います。そして私は求めることは重要であると思っています。求めない生き方なんてあり得ない――。そんな生き方は自分にはできない。そこで、なぜ私がそう思うようになったか、と言うことを今回は書いてみたいと思います。
すんごい急な話でなんなのですが、私は昔、性欲というものを憎んでいました。
私は小さい頃、冷静で落ち着いて上品でいることこそが美徳だと考えていましたので、「平常心」というものをとても重要なものだと考えていたのです。常識ある行動ができる、感情に流されない、つまらないことで怒らない、そう言う性質が大事だと思っていたんです。
それに性欲とは淫らで、嫌らしいものってイメージが強かったですから、受け入れがたいものでもありました。大人は性という存在を子供に対しひた隠しにし、子供がその存在に触れようとでもしたらその手をはたき落としますが、私は大人のそう言う態度を見て、自分も性欲というのは「悪いこと」なんだ、タブーなんだ、という認識を小さい頃から無意識のうちに持ってきました。特に、それが人間の平常心を乱す、と言うことを一番私は嫌っていたんです。
私は先ほども言ったとおり平常心というものを大事にしていました。偏向した考えは持ちたくなかったし、政治的な思想においても右でも左でもなく、でもちょっとだけ左の中道左派を自称していました。この「平常心」とか「中道」と言う言葉を、私が今使っている言葉に置き換えると、「
ニュートラル」と言う言葉になります。えーっと、どっからそんな言葉が来たのかというと……。
「ニュートリノ」って聞いたことありませんか? あのノーベル賞を受賞した小柴さんがカミオカンデって言う地下のでっかい装置で存在を実証した素粒子の名前です。物理の素粒子学の分野です。ニュートリノは何でこんな名前がついたかって言うと、電気的に中性、つまり+の電荷も-の電荷も持たないからこんな名前なんですね。その語源が「ニュートラル」、つまり「中性」と言うわけです。
私は昔、人間において平常心、真のニュートラルとは何かを考えてみたのですが、これは簡単な話ではありませんでした。それは例えば日曜日の午後にコーヒーをすすってリラックスしているときでしょうか?……ニュートラルってつまり平常心ですからね。それとも、寝て意識がない状態がニュートラルでしょうか。寝ていれば何もしない、感じていないからニュートラルかな? でも、寝てても生きているわけですからね。生きている状態がニュートラルなのか、死んでいる状態が真のニュートラルなのか……。まさかサッカーの試合を見て興奮している人はニュートラルじゃないよね……。
さあ、困りました。このジレンマを解決するには、もう一つ、物理の知恵を借りなければなりません。
高校の物理の授業で「相対性原理」というものを習いました。物体の速度というものはベクトルの数値で表せますが、たとえば同じ自転車に乗っている人の移動速度でも、地面に立って動かずにそれを見ている人、(横移動の)エスカレーターに乗って移動しながら見ている人、そして歩いて見ている人では、それぞれ観測できる速度が異なります。つまり観測者によって速度の値というものはいくらでも違ってくる、と言うわけです。
普通に考えたら「ニュートラル」であるのは「地面に立って動かずに見ている人」のような気がしますが、でも
自転車に乗っている人から見れば、その「地面に立って動かずに見ている人」も自転車の進行方向と逆向きに動いているんです。つまり相対性原理の考え方によれば、観測という行為に絶対的な基準というものはない、と言うことになります。
私はこのことは物理だけでなく、倫理や論理にも当てはまると思います。つまり物事に対する評価や判断というものは、なにか基準を設定して初めて相対的に決まるものだ、ということです。基準がなければ、それがその基準点よりどっちにふれているかなんて決めようがありません。そして基準は設定するもの、作り出すものです。つまり元からそこに存在する真のニュートラルというものはなく、何が平常心かなんてほんとは決められないんじゃないかと私は考えたんです。
たとえば、人間は腹が空いたら何かを食べたいと思って食べ物を欲し、それを食べます。眠くなったら睡眠を欲し、寝床に行って寝ます。一見腹も減っていない、眠くもない、ただゆったりと過ごしているのが平常心に思えますが、でも人間の性質から言って栄養が足りなくなったら食べたいと思い、睡眠が足りなければ寝たいと思うのは自然なことです。人間として自然な行為、というものを基準として置いたなら、それはつまりニュートラルであり、平常心じゃないかって思うんです。
私は音楽が好きでいつでも聴いていますが、でも時々不思議に思います。何で音の集合体である音楽が、こんなに人の心を揺さぶるのか。音楽ってのは別になくても死にはしません。でも、例えばライブならいちいち舞台をセットするなんて言う面倒な作業をしてまで開催し、観客もそれにわざわざ足を運びます。音楽好きじゃない、音楽を聴いても何も感じない人から見たら、こいつらなんでこんなに熱狂してるんだ、気が狂ってるんじゃないか、って思うと思うんです。たぶんそれはこいつらは平常心じゃない、って事から来る感想でしょう。
でもなぜか人間は音楽が好きで、たしなみます。(それは他の生物には見られない性質でもありますね。)
人間は、食べ物を食べなかったり、眠らなかったりすると死んでしまいます。だからそれらを求めるのは人間としてニュートラルです。そしてそれだけでなく人間は音楽だとか、一見生命活動とは関係ないようなものまで求めます。音楽をなぜ脳が欲するのか、と言う科学的な話は、将来解明されるかもしれませんが、私は音楽を聴きたいと思ったりそれで熱狂したりするのもやはり人間の自然な欲求であり、ニュートラルなことなのではないかと思います。
話を元に戻しましょう。なぜ求めることが重要か。求めることは一見何か新しい状態を求めるニュートラルでない行為のような気がしますが、上記の考えを適用すれば、やはり求めることも人間として自然な行為なのでニュートラルになります。ある人、そしてそれらが集まったたくさんの人々が成長していく過程で、こんな将来があったらいいな、と心に思い描くのは、人間が与えられた、人間社会、ひいては種の発展のための必要な必然的性質だと思うのです。
求めることをやめれば、その個人も、社会も、人間という種もほどなくして滅びることになるでしょう。
求めることは、存在し続けるためにも必要なことです。
食事が特別好きじゃない人でも食べないわけにはいかないように、例え望もうが望まなかろうが、求めること、求め続けることの他に選べる道なんて存在しません。そして、求めるからこそより良いよいものを生み出せるようにもなります。それはまだ見ぬ可能性を切り開くと言うことです。だから私は求めることは必然的なこと、重要なことだと考えているのです。
「――求めることを恐れてはならない、喜びに意味があるなら、それを求めることにも意味がある。」
2009年1月12日のwhitecapsより。■(2009.2.27)